淫獣聖戦後伝・羽衣淫舞(9)

 戸隠連山の中でも特に急峻と言われる西岳の東側斜面は、険しい断崖になっている。
 登山愛好家でさえも畏敬の念を禁じえない絶壁に、岩から岩へと飛び渡っていく二つの影があった。スギの梢から飛び立ったイヌワシが上空をゆっくりと旋回しながら、警戒するように鳴き声をあげている。
 潅木と笹、そして複雑に入り組んだ岩盤のせいで、尾根伝いの登山道からは見えない。絶壁の下には深い雲海が広がって、神々しい景観を作り出していた。
 断崖の中腹に突き出した大岩の上まで来ると、二つの影は動きを止めた。
 「えっと、たぶんこのあたり、なんだけど・・・」
 手にした古い地図に目を落として、亜衣はつぶやき、それから周囲を見渡した。
 「ふぅ、それにしてもすごい岩場ね」
 麻衣は亜衣に寄り添って立つと、額の汗を真っ赤な長手甲で拭う。
 天津姉妹は天女の羽衣を纏った戦闘衣姿で、戸隠のさらに深山を探索しているのである。
 天女の神通力によって飛翔力を高めた羽衣姿であれば重厚な登山装備は必要ない。
 「この大岩がたぶんこれだから・・・、あの崖の向こう側だわ。」
 墨で描かれた地図ではあったが、絶壁の地形が細かく書き込まれている。
 「麻衣っ、行くよっ」
 「はいっ」
 亜衣、麻衣の順に跳躍し、空を駆けるように大岩から次の岩へと飛び移っていく。羽衣はすでに完全に蘇生して、蒼草法師との戦いの中で受けた傷跡が微塵も残されていないのも、天女の神通力なのであろう。

 悪夢のような未明の死闘から、四日が経っていた。
 紅蓮の炎に包まれて焼滅する淫魔の姿を見ながら気を失った亜衣が目覚めたのは、その日の夕刻だった。
 「あ、お姉ちゃん・・・気がついた?」
 けだるさの残る頭を少しだけ持ち上げた亜衣に、麻衣がホッと安堵のため息をつくように問いかけた。
 「麻衣・・・」
 亜衣は庵の中で布団に寝かされていた。寝巻きの白襦袢を着ている。
 「よかった、目が覚めて」
 麻衣は涙声で言い、亜衣の背に手を回して助け起こしてくれた。
 「麻衣が着せてくれたの?」
 「うん」
 「そう・・・ありがとう。それで、やつらは?」
 あれからどうなったのだろう。
 嵐のような陵辱に、肉体も精神も忍苦の限界を超え、亜衣は正体なく眠っていたらしい。
 「見てみる・・・?」
 麻衣は半分戸惑ったような、しかし穏やかな声で言い、亜衣の手を引いて立たせた。
 「・・・?」
 麻衣の態度を不思議に思いながら、亜衣は庵の戸口から外に出た。

 分祠の向こうで西の空が茜色に染まっていた。
 庵の前のわずかな平地に、真っ黒な炭の塊りが残っている。
 その脇に、蔓草や枯れ枝が絡みついた丸太が一つ。
 「これは・・・?」
 「孝明さん。倒れた後、こうなっちゃったの。」
 「そう・・・」
 亜衣と麻衣を陵辱したのは、蒼草法師に操られた孝明青年ではなくこの丸太だったのか。言われてみればその丸太はちょうど孝明の身長に近い。強い力で根こそぎ引き抜かれ、枝をもぎ取られたようないびつな切り口が目についた。
 今さらながらに、姉妹の心を弄び、その誇りまでを打ち砕こうと企んだ蒼草法師への憎しみが湧いてくる。
 「じゃあ、あの時の五人はどうしたのかしら」
 蒼草法師が「操った」と豪語していた五人の大学生のことが心配だ。命果てるまで互いに求め合うと嘲笑っていたが、孝明青年も偽者だったくらいだから、あるいは無事かもしれない。
 「わからないわ。明日にでも探しに行ってみようと思ってるけど。」
 とはいえ、この広い山中でどこを探せばよいというのか、それは亜衣にもわからなかった。
 二人はそれ以上、今朝の恐ろしい出来事には触れようとせず、夕焼けが西の空に消えていくのを見つめていたのだった。

 その翌朝、西岳の麓、上楠川の集落に近い登山道で、五人の大学生が保護された。沢づたいの細い登山道で気を失って倒れている五人を発見したのは地元の老夫婦だった。
 助け起こされた時、五人はいずれも数日間の記憶を完全に失っていて、なぜその場所にいたのかも、どうやって下山したのかも憶えていなかった。
 だが五人とも怪我もなく健康で、老夫婦の家で半日休んだ後、東京に帰っていったという。
 亜衣と麻衣はそのことを、鬼無里の駐在所で聞いた。
 さらにその翌日のことだ。
 「昨日からその噂で持ちきりなんですよ。神隠しだとか、大地震の前兆だとか。」
 駐在所のお巡りさんはそう言って苦笑した。
 「東京に帰す前にちょっと相談してくれりゃあ、病院で検査を受けてもらったりできたんだけどねえ。」
 と言って嘆いている。親切な老夫婦は警察にも病院にも知らせず、大丈夫という本人達の言葉を信じて、そのまま帰してしまったらしい。
 「そうなんですか。ありがとうございました。」
 亜衣と麻衣は、なんだか安心したような、しかしどことなく納得しきれないような後味の悪さを感じながら、顔を見合わせた。
 この二日の間、新たな結界を張りながら山の中を探し歩いて、もしやと思って村落に降りてきて聞いてみた結果だったのだから無理もない。
 「なんなのよ、もう!」
 山頂に近い庵に帰る道中で、麻衣はしきりに憤慨している。
 「まあ、よかったじゃない。無事だったんだから。」
 亜衣はむしろ戦いの終焉を見て、ほっとする気持ちの方が強かった。
 「それはそうだけど、せめて住所くらい聞いておいてくれれば話を聞きに行けたかもしれないのに。」
 「でもどうせ本当に何も憶えてないでしょ。私達には他にもっとしなきゃいけないことがあるわ。」
 こういう切り替えの早さも、亜衣の性格の大きな特徴の一つだ。
 登山道はもちろん、森の中にまで張っていた結界がどれもズタズタに破壊されていたことから考えれば、あの五人が蒼草法師の邪悪な方術に操られていたことは疑うべくもないが、今さら五人に事情を聞いても得られることは少ないと思われた。
 「麻衣、私ね」
 前を歩いていた亜衣は背後の妹を振り返った。
 「え、なに?」
 麻衣はまだブツブツと何か呟きながら横を向いて歩いていて、前を歩く姉の背中にぶつかりそうになって驚いて立ち止まった。その麻衣の様子に亜衣も思わずクスッと笑みを浮かべて、それからまた真顔に戻って言葉を継いだ。
 「おばあちゃんの滝を探してみようと思うの。」
 「えっ、おばあちゃんが若い頃に修行したっていう幻の滝のこと?」
 祖母の幻舟がまだ若かった時分に、一人で戸隠の山奥に籠もって修行をしたという話は聞いたことがある。幻の滝を見つけ、その滝壺の中で不思議な啓示を聴いたのだという。
 「うん、地図を預かったでしょう。」
 亜衣はその地図を幻舟から託されたときのことを思い出していた。

 「亜衣、麻衣。わしもいつかは死ぬ。その後、もしも鬼獣淫界の陰謀が迫っている危険を感じたら、この滝に行け。幻の滝、という。冬の間は凍りついているが、夏から秋にかけてなら滝壺の中の神殿に入ることができる。そこで祈祷を捧げるのじゃ。よいな?」
 そう幻舟から言い聞かされたのは、天津屋敷の祖母の部屋でのことだ。
 その時はまだ、幻舟の死など遠い先のことと思っていた。だから姉妹はあまり実感もないままに祖母から小さな地図を受け取り、力強く肯いたのだった。
 しかし思い返してみると「滝壺の中にある神殿」というのは想像もつかない。
 そもそも、どんな滝だというのか。
 祈祷を捧げると何が起こるというのか。
 それを確かめるべく、亜衣と麻衣は西岳東斜面の絶壁に挑んでいるのだった。

 幾度か人間離れした高い跳躍を繰り返した後、亜衣と麻衣はアカマツの巨木の枝に降り立った。
 (あった・・・)
 固い断崖の岩肌から、噴水のように噴き出した水が白い飛沫を纏うように数十メートルも下の滝壺に向かって落ち込んでいる。
 「これが、幻の滝・・・」
 麻衣が小さく呟いた。
 ちょうど張り出した岩盤の陰に隠れ、また噴き出し口は大きな杉の枝が覆っているから、おそらく上空からでも見つけることは難しいだろう。
 二人は肯き合ってアカマツの枝から飛躍し、滝壺のほとりにふわりと着地した。
 近くに寄ってみると、滝壺に叩きつけられる水音は激しい。
 低く響く瀑音は、地獄の底から地が呻いているかのような不気味さを感じさせる。
 不思議なのは、その滝壺から流れ出る水の流れがないことだ。
 おそらく、このまま固い岩盤を突き通した水が、地下水脈の洞窟へと落ちているのだろう。轟音の重苦しさはそのせいかもしれない。
 (この滝壺の中・・・?)
 亜衣もさすがに逡巡する。
 山の雪解けの水が数ヶ月の時をかけて地中に染みこみ、それが水流となって噴き出しているのだから水量も多く、滝壺は渦潮のごとく荒れ狂っている。
 けれど幻舟の言葉によれば、この滝壺の中に神殿があるのだという。
 蒼草法師を倒したとはいえ、鬼獣淫界から次にどんな刺客が送り込まれてくるかわからない。新たな敵との戦いに備えるには、今の亜衣と麻衣の二人では心もとなく思える。
 今回もなんとか敵を倒したものの、天神子守衆は二人で守っていかなくてはいけないのだ。その力になるものであるなら、今はどんなものにもすがりたい。
 亜衣は意を決して滝壺に一歩、足を踏み出した。
 その時だった。
 「やめたほうがいいですよ。」
 背後で声がした。天津姉妹は驚いて振り向いた。
 「やめたほうがいいですよ。」
 もう一度、同じ言葉を繰り返したのは、亜衣と麻衣の背後に立っていた青年、いやまだ中学生くらいの、痩せた少年だった。登山の装備などない軽装で、微笑むような穏やかな表情をして立っている。背中に小さなリュックを背負っているだけだ。
 「あ、あなたは?」
 亜衣は持ち前の気丈さで驚きを隠すと、少年に訊いた。近所の子が散歩にでも来たのか、と思うのが自然なのだろうが、こんな高山の断崖のそばに民家などあるはずもない。
 「天津亜衣さんと麻衣さん、ですよね?」
 少年は質問に答えるより前にそう言って笑うと、それから自己紹介をした。
 「僕は紅麿。鬼麿のいとこです。」
 「えーっ!」
 無邪気に驚きの声をあげる麻衣の横で、亜衣は警戒心に体を硬くした。
 「あっ、驚かしちゃってすみません。」
 紅麿少年はニコリと笑顔を見せて、それからペコッとお辞儀をした。
 「この滝は夏の間はこの水量ですから、滝壺の下に降りられるのは秋のわずかな間だけなのです。」
 鬼麿のいとこ、とはとても思えない、丁寧で賢そうな言葉遣いで言う。
 「そうなんですか。教えてくれてありがとう。」
 麻衣はすっかり警戒を解いて、紅麿に歩み寄ろうとする。
 「麻衣、待って」
 亜衣は低い声で麻衣を制止する。
 「あなたはここで何をしているの?きちんと説明してもらえないかしら。」
 亜衣の声には、突如出現した少年への猜疑と不信が満ちている。
 「説明はしますが、もう少し静かな場所へ移りませんか?例えば、あの大きな岩の上とか・・・」
 そう言って紅麿が指さしたのは、眼下の雲海からぽっかりと浮島のように顔を覗かせている岩場だった。
 距離にして二百メートルもあろうか、高度差も百メートルはある。
 「あの岩・・・?」
 麻衣が遙かな崖下の岩場を見た時には、もう少年の体は軽々と雲海に向かって飛び出して、落下していった。
 人間であれば間違いなく即死する。思わず姉妹は息を呑んだ。
 が、少年は軽々とその岩場に着地して崖上の二人に微笑むと、手招きしている。
 (罠・・・?)
 とも思うが、あの少年が何か、重大な秘密の鍵を持っているようにも思える。
 どうする?と亜衣の判断を仰ぐ表情で見る麻衣に、肯いてみせてから、亜衣もその岩に向かって跳躍した。すぐに麻衣が続く。
 青と赤の風となって、空中をなめらかに飛翔した二人は、少年のいる岩場に降り立った。
 「それじゃ、聞かせてもらいましょうか。」
 亜衣は腕組みをして、少年を威圧するように見下ろした。
 「そうですね、何から話せばいいですか?」
 少年は落ち着いた口調で言った。その様子だけ見れば、不審な雰囲気は感じられない。
 「まず、あなたのことをもう少し教えてくれないかしら。」
 鬼麿のいとこ、と名乗ったが、それだけでは善悪の区別がつかない。底抜けの明るいスケベ少年である鬼麿は、天神様の末裔でありながら淫魔大王の地位をも継承する血筋なのだ。
 「いとこの鬼麿と血筋としてはあまり変わらないですよ。天神の末裔であり、淫魔大王一族の血も引いている、と聞いています。ただ鬼獣淫界との繋がりは今まで何もありません。淫魔大王との血縁も鬼麿ほどには強くないらしいです。」
 紅麿は礼儀正しい態度で話す。ワガママ全開の鬼麿とは、その点でもまったく違っている。
 「僕も鬼麿と同じように、熊野の山の中で育ちました。昔はときどき鬼麿と遊んでやったものです。」
 「ふーん、それで?」
 「天神のお告げがあったのですよ。」
 唐突に、紅麿は言った。
 「四日前の朝のことです。」
 四日前の朝といえば、姉妹が蒼草法師と戦っていたあの時だ。亜衣は麻衣と顔を見合わせた。
 「亜衣さんと麻衣さんを助けよ、と。」
 「私たちを?」
 「ええ、そうです。」
 「ちょ、ちょっと待って。」
 亜衣は饒舌に話し続けようとする紅麿を、手の平を上げて制止した。
 少し考える時間が欲しかった。

 (怪しい。)
 これまでも、いつもそうだった。
 カーマやスートラの時も、孝明青年の時も、初めは紳士的で温和な態度で姉妹を安心させ、近づいてくる。鬼獣淫界の刺客が考えそうなことだ。妙に自信ありげな態度もまた、これまでの「敵」となんら変わりがない。
 痩せて小さな体に、先ほど見せた飛翔力が宿っていることから考えても、只者ではない。
 (だいたい鬼麿様にいとこがいるなんて聞いたこともないわ。)
 「そう、わかったわ。」
 数分間の沈黙の後、亜衣は顔を上げて紅麿を見た。
 「私たちの庵に行きましょう。」
 天神子守衆の結界に守られた庵に行く。紅麿が何か理由をつけて拒否すれば、有無を言わさず敵と見なす。亜衣はそう決意していた。
 すでに戦闘衣姿なのだ。武具は梅の枝に形を変えて、胴帯の中に忍ばせてある。敵ならば先制攻撃しかない。
 (一刀で切り捨ててやるっ)
 亜衣は一分の隙も見せず、全身の戦う筋肉に力を満たしていった。
 が、しかし。
 紅麿は嬉しそうに、あどけない少年の笑顔を見せて、肯いた。
 「はいっ!」
 (あら・・・)
 出鼻を挫かれたように気が抜けたが、まだ安心するのは早い。
 「でも、まだ信じたわけじゃないですからね。麻衣、先導して。私は後ろから行く。」
 「うん」
 もうほとんど信じる気持ちになっている麻衣は、そんな亜衣の葛藤を「考えすぎ」くらいに感じているのだろう。素直に肯くと、紅麿少年に笑顔で合図を送って、絶壁に向かって飛翔していった。
 その後に紅麿が続き、すぐ後ろから亜衣が跳ぶ。
 少しでも怪しい素振りが見えれば、すぐにでも梅の枝を天女の弓に変え、紅麿を射落とすつもりなのだ。ちょっとした油断も、今の姉妹には許されない。

 やがて麻衣は断崖の上まで到達した。紅麿、亜衣の順にその後を追う。
 あとは尾根伝いに岩場を進み、登山道から少し外れた小さな台地に亜衣達の庵がある。
 三人は何ごともなく、庵に着いた。
 (最初の関門は合格ね。)
 登山道から外れる時に、結界を通過したのだが、紅麿には何の変化もなかった。
 「へえ、ここがお二人のお住まいですか。」
 そんなことを言いながら、きょろきょろと辺りを見回している。
 「きれいなところですねえ」
 午後になって雲海は晴れ、庵からは日本アルプスの山脈が遠くまで見通せた。
 紅麿はその雄大な景色を眺めながら、ゆっくりと祠に近づいた。
 今朝、亜衣と麻衣が二人で祈祷を捧げたままになっている。紫煙を上げていた線香は、燃え尽きている。
 紅麿は祠の前にぴょこんと正座し、それから手を合わせて黙って祈った。
 見た目は頼りなげな少年だが、祈る後ろ姿には不思議な風格があるのも、天神の末裔である証かもしれない。
 数分の黙祷の後、紅麿は気を緩め、立ち上がった。
 「あなたは何者なの?」
 あどけなさと賢さと典雅な気品を併せ持った少年に、あらためて亜衣は聞いた。
 「自分で言うのも照れくさいんですけど・・・」
 そう言いながら紅麿は俯いて頭を掻いた。
 「どうも天神の血は鬼麿よりも強く出てるみたいなのですよね。」
 学問の神様、ともいわれる菅原道真は、若い頃から特に漢詩に長じた学者で、中流の公家の家に生まれながら天皇家に重用され、大納言にまで出世した平安王宮の英才であった。
 きっと少年時代から賢しさの滲み出るような人物だったのにちがいない。
 公家独特の気品はどこか女性的な柔和さを感じさせる。
 「おねえちゃん、あれ・・・」
 麻衣が上空を指さしながら亜衣に声をかけた。
 「・・・?」
 一羽の鳥が、真っ直ぐに庵の方に飛んでくる。
 「フクロウ?」
 「口に何か咥えているみたい。」
 やがてフクロウは、亜衣と麻衣の前に降り立つと、クチバシに咥えていた物を地面に落とした。
 それは丸く巻いた紙だった。すぐに亜衣がそれを拾って開く。
 『いとこのべにまろがそっちにいってるらしいのでよろしく おにまろ』
 どうやら鬼麿からの手紙らしい。まさにミミズの這ったような下手くそな平仮名で書かれている。
 「なあに、これ、きたない字」
 横から覗きこんだ麻衣が呆れたように笑った。
 「その下にも書いてあるわ。あ、木偶の坊さんからだ。」
 あの朴訥な大男の木偶の坊には似合わないような細かい達筆な文字で書かれている。
 話す時には語尾に「ぞなもし」が付く朴訥な木偶の坊だが、手紙は漢文だった。
 鬼麿と木偶の坊が旅立ってまた数日だというのに、妙に懐かしく感じる。
 「えっと、今、熊野に来ています。昔世話になった紅麿様という鬼麿様の従兄に会いに来ましたが、どうやら戸隠の庵の方に向かったようです。亜衣様、麻衣様のもとを訪ねるかもしれませんのでよろしくお伝えください、ですって。」
 漢文を口語に訳しながら、麻衣に読み聞かせた。
 「熊野に不穏な言伝あり、調査します。十日ほどで一度そちらに戻ります。木偶の坊」
 「木偶の坊さん、戻って来るんだ!」
 麻衣は嬉しそうに歓声をあげる。
 「ほーれ、見い、麿の言ったとおりじゃろー!」と鬼麿ならば調子づくところだろうが、紅麿は微笑みを浮かべて、澄んだ瞳で亜衣達を見ているだけだった。
 「どうやら本当のことだったみたいね。木偶の坊さんに返書を書かなきゃ。」
 亜衣は疑念が晴れた安堵感とともに、紅麿に対する照れもあって、逃げるように庵に入った。



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