「(ここは・・・?)」

 仁の意識は、まどろみの中にあった。

 

 灰色の絵の具を水に溶かしたかのような、奇妙な空間。

 回りすべてが、ゆっくりと混ざり合う、濃い、薄い灰色。

 それがその空間の、全てだった。

 

「(これは・・・ 夢か?)」

 何度か、こういう夢を見た事がある。

 最初はまどろみで始まり、そしてそこからは・・・ 決まって、薫の夢を見る。

 

 最初は元気な、8年前の薫の姿から始まり。

 そして・・・ 最後には決まって、痩せ細って餓死する。薫の姿。

 

 それは、自分の、薫に対する罪悪感が作り出す悪夢なのだろう。

 

 しかし、今回の夢ばかりは、どことなく・・・ いつもとは違った何かを感じた。

 

 

 

 

  ◇    ◇

 

 

 

 

 灰色の情景は大きく移り変わり、どこかの中庭へと変化する。

 それは、仁には何より見慣れた光景だった。

 

「(安倍の・・・ 屋敷・・・)」

 幼少の時代から多くの時を過ごしていた、新平安京の中庭。

 それはまるで、平安時代の土地をそのまま切り抜いたかのような、古き良き日本をそのままに具現し切った場所だ。

 

「(カオルと二人で・・・ よく遊んでいたっけな・・・)」

 そう、仁が昔に想いを馳せていた時。

 

 

「(あれは・・・!?)」

 突如現れた。小さな影。

 

 

 それは・・・ 8年前の薫だった。

 その当時から、薫の恰好、そして容貌は中性的で、始めて見る人間は、女の子か男の子か、判別が難しかった。

 服装も、スカートではなく長ズボンとシャツ。そして、当時から好きだった、探偵風の帽子。

 

「・・・・・・」

 薫は、体育座りでうずくまりながら、じっと石庭を眺めている。

 

「何やってるんだ。カオル」

 やって来た、もう一人。

 8年前の、まだ幼さを残した仁だった。

 

「ジン・・・ ちゃん・・・」

 俯いた状態から片目で仁を見る、薫。

 そう、薫は当時、俺の事をジンちゃんと呼んでいた。

 

「また・・・ 同級生とケンカしたのか?」

 仁の問いに、薫はコクンと頷いた。

 

「あいつら・・・ 私がキライみたい。

 私だけカクエンみたいな、式神の友達がいるから・・・」

「キィ・・・・・・」

  常に薫の側を離れない、カクエンと呼ばれた、50センチほどの大きさの小猿。

 薫が5歳の時に初めて使役するに至った、最初の式神。

 薫からすれば、仁の次に出来た、大切な友達である。

 

 それは、天岩戸の戦いで仁が斬った、あの大猿。獲猿(かくえん)だ。

 

「・・・それは、酷いな。

 カオルは、すごくいい子なのに。お母さんも・・・」

  仁と薫は、親同士までも知り合っているほどの仲である。

 

 もっと小さい頃は、二人で公園を走り回る事だってあったのに、

その当時の仁は、学校ではなく、逢魔戦士の養成所へと入れられていた。

薫と一緒である機会は減り、薫は・・・ 苛められ易くなっていた。

 

「あいつら、やることが汚いよ・・・

 見てない所で教科書を隠したり、画鋲置いたり・・・」

  安倍の学校も、基本は普通の学校と変わらない。

 

 いや、閉鎖的な場所であるが故に、それよりも人間同士の間で陰湿さが生まれてしまう。

 それは、小さな子供達も例外ではないのだ。

 むしろ、子どもたちの間だからこそ、その集団の中で【周りと違う】ということは、致命的なのだ。

 

 

「・・・それに、私知ってる。大人の人たちだって、私のことがキライなんだよね?」

「・・・・・・・・・」

 閉鎖的且つ前時代的な地域の中で、超常的な才能に恵まれた人間が出てくれば、大人たちの反応は大きく二通り。

 自分の事のように喜び、賞賛するか。異端として疎ましく思い、嫌悪するか。

 

 特に、当時の安倍と逢魔は、使命の重責や、古くから続く妄執や全時代的な思考により、心に陰が目立ち始めていた。

 

 

「どうせ、私が好きな人なんて、誰もいない・・・

 私を守ってくれるのも、カクエンだけ・・・」

  その時の薫は、心の底からそう思い始めていたのかもしれない。

 

 仁と薫には、共通点があった。

 彼らは共に、優しく体の弱い母を持ち、そして、尊敬の出来ない父を持つ二人である。

 だからこそ、安倍一族の中でも期待の新星である薫と

隊長の息子とはいえ、所詮は安倍一族を守る盾でしかない逢魔の子供が

今こうして同じ場所に在り、そして何の分け隔てなく語り合う事が出来るのは、そういう奇妙な縁があってこそだった。

 

 

「・・・・・・・・・」

 体育座りのまま、膝の中に顔を埋めている薫。

 その薫を見て

 

「オレが・・・」

 

「オレが・・・ 守る」

 当時の仁は、そう言った。

 

「え・・・?」

 

「カオルのことは、オレが絶対守る。

 どんな時でも飛んで行く。だから・・・ もう、泣くなよ」

 

  仁は、薫に泣いて欲しくなかった。

 それに、薫なら・・・ 他の何かを敵に回しても、身を挺して守っても、全然構わない。そう思った。

 

「本当・・・?」

 きょとんとした表情で、仁に尋ねる薫。

 

「ああ。約束だ」

 仁は、自分の右手の小指を差し出した。

 

「・・・・・・うん」

 薫も、たどたどしく、自分の小指を出し・・・

 ぎゅっと、力強く小指同士を絡ませた。

 

 

 

 

  ◇    ◇

 

 

 

 

「・・・・・・・・・」

 その時の、薫の小さな、そして柔らかな指の感触は・・・ 今でも、覚えている。

 しかし・・・ いつものパターンなら、ここからが、悪夢だ。

 

 

 

 

  ◇    ◇

 

 

 

 

  再び、世界は移り変わる。

 

「(今度は・・・?)」

 

 やはり、見覚えが在る場所。

 ここは・・・ 逢魔の駐屯所だ。

 

 

「なんでなんだっ!!!」

 突如後ろから聞こえる少年の大声に、振り向く。

 

 そこにいたのは・・・

 

「何で、何でカオルが安倍から追い出されなきゃいけないんだよっ!! オヤジっ!!!」

 父親に対して怒鳴っている、幼き仁。

 

 あれからほんの半年後、香が安倍から追放されたと聞いてすぐの事だ。

 

「・・・知らん。安倍は安倍。逢魔は逢魔だ。安部の中でどういう判断が下されようと、我々逢魔はそれに従うのみだ」

 仁の父親にして、当時の逢魔隊長。逢魔宗源(おうまそうげん)。

 

 少し伸びた程度の、ぺったりとしたサラリーマン風の髪型。

 こけた頬から痩せ型の人間と思われがちだが、その実肉体は理想的に筋肉が絞り込まれている。

 レンズの厚い眼鏡の奥に見えるその眼光は、まるで痩せた狼を思わせた。

 

 まるで、自分の信じる道に疲れ果て、それでもひたすら、死ぬまでその道を歩み続ける、そんな憐れな狼。

 その目が、幼き仁にとっては怖かった。

 例え正面にいても、その瞳に自分を映さないような、自分に対して何の感情も見せた事が無いその目。

 

 もっと昔、幼少の頃は、仁は父親を知ろうと積極的だった。

 それでも、知ろうとすれば知るほど、父の目から感じるものは、【怖い】という感情。

 例えるなら、ぽっかりと空いた深い、どこまでも深く底の見えない穴を、感じてしまう。

 何も無い空洞。何を入れようとしても、穴の中に消えてしまうだけの穴。

 そして、のめり込めばのめり込もうとするほど、まるで自分が、その孤独な穴に落ちてしまいそうで・・・

 

 

 人が最も恐怖するものは、【理解できないもの】と、【自分を脅かすかもしれないもの】。

 仁にとっては、父、宗源という存在こそが、最初に知ったその二つだった。

 

 

 

 (カッ・・・)

 

 仁は、踵を返し、一方向へと歩き始めた。

 

「どこに行く」

 宗源の、感情の無い声による疑問。

 

「カオルを探しに行くに決まってる・・・! 約束したんだ!!」

 対して幼き仁は、純粋な感情をむき出しにしている。

 

「では、菫(すみれ)はどうする?」

「・・・っ!!」

 菫。それは、仁の母の名前。

 

「菫には、誰か一人付いていてやる人間が必要なのは貴様もわかっているだろう」

「・・・・・・」

 そう、母の体調はすこぶる悪い。布団から離れられず、発作も・・・

 

「俺は手は当分空く事は無い。面倒は見られんぞ」

 

 

 

「俺は一家の長である前に逢魔の長だ。

 一人の女を守るよりも、日ノ本を守る事を優先しなければならん」

  夫として、父親としては最低の言葉。

 

 しかしそれを、宗源はまるでさも当然かのように語った。

 

「・・・それでもアンタはっ・・・! 母さんの夫かよっ──!!

 誰に対してもあまり怒る事のない仁も、父親に対しては怒り、憎しみの感情をむき出しにする。

 

「・・・菫は元々それを承知で俺と婚姻した。お前がどうこう言っても、意味はない」

 宗源は、そんな自分に向けられる息子の感情にさえ、何の表情、感情の変化も見せない。

 

「薫とやらとどんな約束をしたかは知らんが、その為に母親を捨てるか?

 どちらを選ぶも貴様の自由だ。好きにすればいい」

 

「・・・っ」

 そんなもの、答えが出る訳がない。

 

「“絶対に守る”とでも、言ったか?

 それで、何から守れる自信があった? 邪鬼の群れ程度しか倒せる力のないお前が」

  仁の12という年齢で、邪鬼でも倒せるという事は、退魔の中でもかなりの上の上の才の片鱗と力である。

 それでも、宗源は“その程度”と言った。

 

「一人の人間を守りきるという重みを、貴様は知らん。

 非力なたった一人のガキであるお前が、“守る”という言葉を使うなど無知蒙昧にも程がある」

 

「だまれ・・・」

 俯き、歯を軋ませながら、仁は

 

「思い知れ、自分の無力を。

貴様は誰一人として守れやしない。救えやしない」 

 

「・・・っ」

 

「貴様に約束を受けたその薫とやらも、不幸だな。

 貴様のような軟弱者に、守ってももらえん約束を受けたのだから」

 

「あんたがっ────!!!!」

 その言葉に、小さき仁はブチギレた。

 小さな頃から、家庭をほったらかしにしていた男の、あまりにも勝手な言葉に。

 

(ダンッ────!!)

 

 気付くと、仁は父親に対して飛び掛り、拳を振りかぶっていた。

 

 しかし

 

(バキッ!! ドガッ────!!!)

 

 

 逢魔の隊長に、12歳の少年が叶うわけがない。

 宗源は、実の息子に対して全く容赦なく、仁の鳩尾に膝蹴りを喰らわせ、更に背中から肘打ちを与え、木床に叩きつけた。

 

「・・・・・・・ かはっ・・・ けほっ・・・ ケホッ・・・!!」

 仁は床の上でうつ伏せに、胃液を吐きながらもがき苦しんでいる。

 

 

「悔しいのなら、力を付けろ。

 俺が貴様に放ってやる言葉は、それだけだ」

  本当にそんな、たった一言だけを残し、

 宗源は一度も振り返らず、扉を開け、出て行った。

 

 

 

 

  ◇    ◇

 

 

 

 

 それから1年後。必死の看病も虚しく、母は死んだ。

 

 ・・・・・・あの時の言葉は、今でも頭に残り、離れない。

 それからは、必死に薫を探し、そして強くなる為に、ひたすら己を苛め抜き、鍛えた。

 そして年月は過ぎ、仁は戦士として成長し、多くの戦績を上げ、新たな逢魔の隊長にまでなった。

 

 そうして、多くの隊士の命を預かり戦うようになり、初めて・・・

 父の言葉の意味が本質的に理解できた。

 

 逢魔の隊士は、二百数名。

 しかし、人の世に危害を加える淫魔、邪鬼、魑魅魍魎、妖しの類は、限りなく無数にいる。

 そんな中、逢魔の隊長は、億を越える無辜の民を守り、更には、二百数名の部下を守らなくてはならない。

 

 そして実際にそれは、とても完全に守りきれるものではなかった。

 仁は、実に良くやった。やりすぎた程だ。

 それでも、どうしても次々と、部下は、無辜の民は、屍へと変わっていく。

 

 父、宗源は、逢魔の隊長という重すぎるその任に、魂をすり減らし続けていたのだ。

 そして父は、自分の限界を知っていた。

 逢魔の隊長である限り、“家族”を守る事など叶わない。

 二百の為に壱を、数億の為に壱を。切り捨てた。それが父宗源の強さであり、弱さ。

 

 仁は、今でも父に反発している。

 自分は、決して父と同じようにはならない。

 俺は俺なりのやり方で、人を救う。守れなかった約束のために、一人でも多くの命を救う、と。

 

 

 

 

  ◇    ◇

 

 

 

 

 そして再び、世界は移り変わった。

 

 ボロボロの、アパートの中の一室。

 安倍を突然に追い出された、薫とその母、二人がなんとか流れ着いた、最低の住居。

 

 

「うっ・・・ ゴホッ・・・ ケホッ・・・」

 仁も何度か出会った事のある、薫の母。

 

 確かに病弱ではあったが、それでも、今映っているその姿は、あまりにも・・・ 痩せ細って・・・

 かつては如来の様に美しい、優しい笑顔を浮かべていた顔も、頬はこけ、面相は様々な負の感情に一変していた。

 いや・・・ 無理もない。

 愛する男に裏切られ、突然に追い出されて、環境が一変してしまったのだ。

 

「お母さん・・・」

 部屋の隅に蹲っていた薫が、健気に駆け寄り、母の背中を擦る。

 母ほどではないが、薫もまた、かつてよく出会って話をしていた頃と比べ、健康さや気力を全く失っていた。

 それでも、母を思い遣るその優しい心は、変わっていない。

 

 しかし

 

(ドンッ────!)

 

 

「あっ───!?」

 薫は、他ならぬ母本人によって、薫は弾き飛ばされた。

 

「お、母さ・・・?」

 なぜ? という顔で、薫は母を見る。

 

あなたのせいじゃないっ!! 

あなたのせいでこうなったのよ!! 私に・・・ 私に何の恨みがあるのよっ!!!

  突然、ヒステリックな叫びと共に、母は、狂ったように手当たり次第に薫に物を投げた。

 

(ガシャンッ!!)

 

「(っ!!)」

 

「ぁっ───!!?」

 そして、その中の一つ、拾い物の湯飲みが、薫の額に当たって砕け散った。

 額を押さえ、蹲る薫。押さえた手の間から、ボタボタと血が流れ、床を赤く染めていく。

 

 しかし薫は、床に落ちたその血すらも、自分の袖ですぐに拭い、血を見せない様に努めようとした。

 悪いのは全て自分だから、それで自分が怒られるのは当然だから。

 母が怒るのは当然で、だから小さな薫は、幼いながらに出来る限り、母の怒りを受け止めるのが義務だと思っているのだ。

 

 

「うっ・・・ うう・・・ ぁ・・・ ちがう・・・ ちが・・・ 私・・・ あなた・・・ぅ」

 薫の母は、そんな薫の様子を見て、ひたすら首を左右に振り、髪をかき乱し、自分の爪でガリガリと自分の腕の肉を削りながら、小さな声でぶつぶつと、壊れたレコーダーの様に、同じ言葉を繰り返し、泣き続けた。

 

 いつからか、薫の母の心は、少しずつ壊れていっていたのだ。

 今では、定期的に暴れ、そしてそれが終わると、こうして深い自己嫌悪や絶望の中・・・

涙を流し、言葉とも呪詛ともとれない何かを呟き続ける。

 

優しい時と、狂う時はより極端に、そしてサイクルが短くなっていっていた。

終わりは近い。

 その事実を、幼い薫は必死に考えないようにして、母に寄り添って生きていた。

 

 しかし

 そんなものは、当然長くは続かない

 

 

 

 

  ◇    ◇

 

 

 

 

それからいくつかの季節が過ぎたある日。

 

 

(カン、カン、カン、カン、カン・・・)

 

 

薫は、久しぶりに近所の商店からパンの耳や野菜クズ、魚のアラを多めに貰って、ちょっとだけ上機嫌で、ボロボロのアパートの、腐りかけたサビだらけの階段を元気良く駆け上った。

 

久しぶりに、栄養のあるものがたくさん貰えた。

これでスープを作ってお母さんが食べてくれれば、前みたいに元気になってくれる。

前みたいに、優しい笑顔で抱きしめてくれる。

そうしたら、もう安倍になんか戻らなくても、ずっと二人で・・・

 

そう信じて、薫は元気に

 

「お母さんっ!」

 勢い良く扉を開け・・・

 

 

「・・・・・・え?」

 そんな僅かな儚い願いと共に、薫の表情は、凍りついた。

 

薫の母は、俯き倒れていた。

まるで、死人のように。

 

「お母さん・・・?」

 食糧を詰め込んだ紙袋を落とし、母に駆け寄る。

 

「どうしたの・・・? 何があったの?

 お母さん、ねえ・・・?」

  体も温かく、出血も見られない母を、揺さぶり続ける薫。

 

「・・・!?」

 すると、母の右手の中に握られている、何かに気付いた。

 それは・・・

 

「私の、符・・・? そんな、隠してたのに・・・っ!?」

 今のお母さんに符を持たせては危険だという事は、幼き薫にもわかっていた。

 だからこそ、肌身離さず、母の目に触れないように、ずっと隠していたのに、何で・・・?

 

 標準起動式意外には何も刻まれていなかった筈の符には、新しいものが刻まれていた。

 

「これ・・・ まさか・・・ 夢見の、術式・・・!?」

 

 夢見の術式とは、眠りの精霊に働きかけ、“夢の世界”へと精神を旅立たせる術である。

 つまりは、強制的な催眠。

 薫の母は、つらい現実を捨て、その名の通りの“夢”の中へと逃避したのだ。

 

 通常であれば、この術は心疲れた人間を癒す為のものであり、当然効果が切れる【強制的な出口】が存在する。

 しかし、薫の母の手に握られている符には、その為の術式は一切刻まれていなかった。

 つまり、この夢見には、出口が無い。

 

 薫の母は、自ら夢の世界への片道切符を手にし、旅立った。

 こうなっては、いくら薫がどれだけ手を尽くそうと、母の“意志”を戻す事は叶わない。

 もし強制的に戻そうとすれば、それこそ母の精神は完全に崩壊し、死ぬ。

 

 もちろん、そんな夢の世界は長く持続はしない。

 いずれ衰弱し、現実に戻る事なきまま、死に至る。

 それがもとより衰弱していた人間ともなれば、数日ともたないだろう。

 

 それでも薫の母は、現実の薫を捨てた。

 夢の中で、幸せだった頃の自分に戻り、優しかった虚構の夫と、虚構の薫に会う為に。

 

 いや、彼女にとっては、もはやその仮想の世界こそが現実であり、現実は悪夢でしかないのかもしれない。

 夢の世界で“なんであんな嫌な夢を見ていたのかしら”とでも言いながら。

 だからこそ、眠り続ける母の表情は、あの時以来決して薫に見せた事の無い、安らかな笑顔なのだ。

 

 

「母さん・・・? おかあさん・・・?

 ねえ・・・ ウソだよね・・・? ジョウダン、だよね・・・? ねえ、そうだって言ってよ、起きてよ・・・」

  少女はユサユサと、布団の中で動かない母を揺さぶる。

 

 どんなに理不尽でも、母がいれば我慢が出来た。理想に縋っていられた。

 しかし、旅立った者は決して返事をしない。

 

「ウソ・・・ やだ・・・ やだ・・・!!

 わたし、一人になっちゃうよ・・・ そんなの、ヤダ・・・ッ!!

 お母さんっ!! 私、もうお母さんが怒ることなんて絶対言わないから・・・ ずっと押入れの中でいるから!!!

 ごはんだってもういらないっ!!! もう迷惑なんてかけないから! いい子でいるから!!!

だから・・・ だから起きてっっ────!!!」

 

  現実には無理な事を、それでも必死に、叫び続けた。

 小さな薫は、母が困らないように、母が怒らないように、自分を出さないように、泣かないように

 小さいながら、幼いながら必死に努めてきた。

 

 それでも今、自分が置いて行かれるという状況を目の前にて、初めて

 薫は泣き叫び、懇願し続けた。

 

 

 

 

  ◇    ◇

 

 

 

 

「・・・・・・・・・・・・」

 それは、過去に仁が見た、どんな虚構の夢よりも、酷くリアルな“事実”だった。

 

 ・・・薫は、こんなにも苦しんでいたんだ。

 

 

お前が母さんを語るなぁ──────────っっ!!!

 

 

「(あの時の言葉は、そういう意味だったのか・・・)」

 薫の怒りは尤もだ。

 俺は、いくら糾弾されても仕方が無い。

 

 

 

 

  ◇    ◇

 

 

 

 

   それから、3日後。

 

 

「・・・・・・・・・・・・」

 同じ部屋で、薫は部屋の隅で、体育座りの恰好で小さく蹲まり、顔を膝に埋めたまま、何もしていなかった。

 

 それまでは、様々な事をした。

 思いつく限りのことを話しかけたり、噛み砕いた食べ物を口移しで渡したり、なんとか母を戻せる術式を考えたり

 必死にやっていた。

 

 それが、こうなってしまった理由は単純。

 昨日の夜、遂に

 母の呼吸と、心臓の音が止まり、魂を感じられなくなってしまったから。

 

 

 

 

 

身勝手な一人の男に捨てられ

 

絶望に満ちたお母さんの命は

 

非情く 惨めで

 

粉々に割れたの硝子のように 脆かった

 

 

 

 

 

 

 母は、本当に旅立ってしまった。

 娘(かおる)を置いて。

 

 だから薫は、全てを失った。

 希望も、理想も、生きる気力も。

 食べ物にも手をつけていない。

 ただ、母の側で何もせずに蹲っている事しか、薫には出来なかった。

 

 通常の死であれば、まだいくらでも自分を慰める手段はあったろう。

 しかし薫は、最後の最後に、心の拠り所である母にその存在を否定されたのだ。

 

 周りの人間に“鬼子”と疎まれ拒絶され、父には追放という形で拒絶され

 そして母には、否定という形で拒絶された。

 

 

 そんな薫が一度だけ立ち上がったのは、母の遺体から腐臭を感じ始めた時。

 母親が腐るという事実に耐えられなかった薫は、持っていたもう一つの符を使い、焼却の術式を用いた。

 

後にタオシーとなった薫が、【烈火葬炎】と名付け、黒子頭に使ったオリジナルの符術。

自分が決めた対象物だけを燃焼する指定型炎系符術は、悲しいほどにあっけなく、灰と骨の欠片へと変わった。

 

 

 

 

◇    ◇   

 

 

 

 

 それからは、薫は驚くほど身動き一つしていない。

 全てにおいて気力を無くした少女は、ただ朽ちるのを待っていた。

 

 もう、自分を愛してくれる人なんて・・・ いない。

 自分を、守ってくれる人なんて・・・

 

 

「キィ」

 その時、聞こえる一つの鳴き声。

 薫はゆっくりと顔を上げた。

 

「かく・・・ えん?」

 自分が唯一使役する式神、獲猿。

 それが、なんだか悲しい顔で自分の顔を見上げ、肩を叩き、膝を擦る。

 

「なぐさめて・・・ くれるの?」

 顔を上げた薫の表情は酷いもので、目の下は隈ができ、頬もやつれている。

 

 獲猿は、何かを伝えようとするかのように、キィ、キィと鳴いては、片を叩いた。

 

「あ・・・」

 そうだ・・・ いた。

 

 同じ様に肩を叩いてくれた人。

 私を、守るって言ってくれた人。

 仁・・・ ジンちゃん。逢魔仁。

 

「ジンちゃんが、いつか来てくれる、って・・・?」

 獲猿は、コクリと頷いた。

 

「・・・・・・・・・ ジンちゃん・・・・・・」

 今ではもう、安倍の場所さえ良く分からない。

 でも、もう一度一生懸命生きたら・・・

 

 

 

「カオル・・・・・・」

 突然に名を呼ばれた仁は、驚いた。

 

 

「ジンちゃんに、また・・・ 会えるかな・・・?」

 薫の言葉に、獲猿はもう一度頷く。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 仁の姿。仁の声。仁の言葉。

 

 すごく懐かしい気もする。けれど、昨日のように思い出せる。

 すると、すぐさま薫の目から、枯れた筈の涙がまた溢れ出てきた。

 

 

「死にたくない・・・

 カクエン・・・ 私、死にたくないよ・・・

 ジンちゃんに、会いたいよ・・・」

  親からはぐれた子供のように、心細さと郷愁に、薫はボロボロと 涙をこぼし続けた。

 

 

 

「(俺は・・・ 俺はここに・・・っ!!)」

 ・・・いや・・・

 俺は、“ここ”にいなかった。

 薫を守ってなんかやれていない。

 それは・・・ 事実だ。

 

 

 

 

  ◇    ◇

 

 

 

 

 それから薫は、色々な場所を転々とし

 幾度かの飢餓や、様々な心無い人間からの一方的な暴力。警察保護。そういったものを経て

 とある一人の男に世話を受ける事になった。

 

 

 タクシーの中

 

「君も色々と大変だったらしいねぇ。

 だが私は事業の成功でそれなりに裕福でね。もう心配は要らないよ」

  薫の横に立っている男は、薫の肩に触り微笑みかけながら、そんな言葉をかけている。

 

 てっぺんが薄い中年ハゲ頭。突き出た腹。太い指。

まるで豚が人間になったかのような外見だが、服装や顔つきは紳士的且つ柔和。

 

男は、中小企業の社長で、日本の中にいう少数の“小金持ち”の一人だった。

そして、警察に保護された薫の引き取り先として名乗りを挙げたのも彼である。

 

「ありがとう・・・ ございます・・・」

 小さく萎縮する薫は、俯いたまま感謝の言葉を述べた。

 

「なあに、人として当然の事をしたまでさ。それに私は、子供が大好きなんだよ」

 釈迦のような優しい笑みで、優しく労いの言葉をかける男。

 

 

「・・・・・・・・・」

 その映像を見ていた仁は、訝しい気持ちで一杯になっていた。

 

 仁は、表立って人を疑うタイプではない。

 しかし、様々な視線を繰り広げた人間ならではの観察眼とでも言うべきか、

見た目だけではなく、薫を見る目や、全体から感じるオーラ。

 

 全てから、嫌な予感しか漂わない。

 まさか・・・ いや、しかし・・・

 

 

 

「(くっ・・・)」

 これがただの映像でしかなく、過去の事実でしかないというのが、

 どうしようもなく歯痒かった。

 

 

 

 

  ◇    ◇

 

 

 

 

 薫は中年男に連れられ、タクシーを降り、男の家へと案内された。

 

「・・・・・・・・・」

 薫は無言でただ家を見つめている。

 

 かつて住んでいた安倍の敷地全体と比べればさすがに見劣りするものの、中年男の住まいは大きく、広く、立派なものだった。

 外から見たときの外観もさることながら、立派なドアを潜った先の玄関ホールも、まるで体育館のように広い。

 

 

「すごい・・・・・・」

 思わず、薫はそう呟いた。

 

「ははは、そうだろう。すごいだろう?

 だがこれはただの別宅でね。本宅は別にある。

 この家は趣味の為に買ったんだよ」

 

「趣味・・・?」

 

「おっと・・・

君は本が好きなんだって? じゃあ、自慢の部屋を紹介しよう」

 中年男に案内され、玄関ホールの階段を上がり、

 

                                                                            

(ギィ・・・)

 

 

2階の数ある部屋の一つへと入っていく。

 

「・・・・・・?」

 部屋は真っ暗で、その内容が見渡せない。

 

 

(パチッ)

 

 

 中年男が電灯のスイッチを入れると、部屋の中身が明らかになった。

 

「え・・・・・・?」

 部屋中に所狭しと存在する、本棚。そして、本、本、本。

 

「・・・図書室・・・?」

 それも、一般的な学校にある図書室並みに大きい。

 

「わあ・・・ こんなに色々本がある・・・!

 あ、これって・・・」

  薫は、数ある本棚の中に、見覚えがある蔵書を発見した。

 

「陰陽術の指南書に、歴史書に・・・ すごい!」

 どれも、安倍ぐらい出なければ到底手に入らない、陰陽師には必須である書の数々。

 

「ほう? 詳しいね。

 私もオカルトに趣味があってねえ。色々集めたんだよ」

 

  中年男の言葉も、あまり耳には入っていなかった。

 本を読むという事が大好きな読書少女だった薫にとって、立派な図書室ほど輝かしく映る場所は無い。

 それも、安倍を追い出されてより、そんな場所に行く時間さえ満足になかった薫にとって、久しぶりに見る本棚。

 

 何より、安部にしか存在しなかった陰陽の書の数々が存在しているというのは、薫にとって奇跡である。

 

「(・・・また、陰陽術を学べる・・・!!)」

 その時の薫は、

この人に嫌われないようにしないと、とか

体の事は隠しておかないと、とか

そういった不安の感情すらも忘れ、本棚に魅入っていた。

 

 

 

 その時

 

 

(バタン、  カチャ・・・)

 

 

 背後から聞こえる、ドアを閉める音。そして、鍵をかける音。

 

「・・・?」

 その音に、さすがに薫も振り向いた。

 

 鍵を閉めたのは、もちろん中年男である。

 

「どうして、閉めるんですか・・・?」

 なんだか怖くなりつつも、薫は疑問をぶつけた。

 

「ふむ。どうやら我慢が出来なくなってきてねえ。

 本当なら地下にちゃんと作った部屋に案内するまで我慢を・・・ と思っていたんだが・・・

 まあ、最初の場所は君の好きな場所というのもオツだろう」

 

  中年男の目は、さっきまでの紳士風なものとは打って変わり、欲望に血走っていた。

 

「・・・・・・っ」

 幼き薫には、男の言っている意味すら良く分からなかい。

 薫が追い出された時が、そもそもとしてそういった教育を受ける前なのだから、当然といえば当然だろう。

 

 だが一つだけ分かるのは、

 今の状況が、危険であること。

 目の前の男が捕食者で、自分が捕食される立場へと変じたという事実だけは、本能的に感じとった。

 

 じりじりと、滲みよってくる男。

 

 

「・・・イヤ・・・ やだ・・・ こ、来ないで・・・」

 恐怖に囚われ、震える声で損な小さな拒絶しか言えないまま、後ろに下がる事しか出来ない。

 そこに、男の手が一気に伸び、薫の胸倉を掴むと

 

 

(ドッ・・・!!)

 

 

 そのまま机の上に、仰向けに薫を乱暴に置いた。

 

「あぐっ!!?」

 突然の衝撃に、薫はパニックになった。

 しかしほんの少女でしかない薫の抵抗など、一人の大人の男の前で脅威になどなるはずが無い。

 

「ハハ・・・ 私はね、事業の成功と共に多くのものを手に入れられるようになったんだ。

 それこそ、望むものは全てね!! 食べ物も、本も、家も!!!

 だが一つだけ入手が難しいものがあった。私の望みどおりに育てられる少女だよ!!

 欲しくてしょうがなかった! しかし中々機会が無くてね!!

 

 君の事を知ったときに何故決めたかわかるかい?

 戸籍が見当たらない、というのが決め所だ。

 元々存在しない少女なら、色々な面で私の自由に出来る!! そう、好きにね!!!

 

 君という存在を、ここから外に知らせないようにするのは実に簡単だ。

 この家の中だけで君は存在するんだよ。私の最初の愛玩人形としてね!

 さあ、私の愛を受け入れてくれ!!」

 

 

(ビリッ!! ビリ、ビリッ!!!)

 

 

「きゃ、あああああっ────!!!?」

 いきなり服を力一杯に、袈裟に破かれ、薫は喉の奥から悲鳴を上げた。

 

「はははっ! この部屋は防音だよ。

 誰にも悲鳴なんて聞こえやしない。私だけだよ、君の悲鳴と、喘ぎ声を聞くのはね!!」

 

 

(ビリッ! ビリビリビリッ────!!)

 

 

 次々と引き裂かれていくカオルの衣服。

 ブラジャーなどというものなど持ちようが無い、薫の未発達な胸は、すぐに露わになった。

 

「ああ・・・ 可愛い胸だなあ」

 左手で薫の両腕を封じながら、まだ欠片ほどの膨らみしか見せていない胸、そして汚れの無い桃色の乳首を乱雑に弄る。

 

 

「ヒッ・・・!? イヤァっ!! 痛い! 痛いぃぃっ!!」

 そうされる意味さえも分からずに、薫は泣き叫ぶ。

 

「痛い!? ははははっ!! 痛いのはこれからだよ! そして・・・

 私無しではいられなくしてあげようじゃないか!!」

 そういうと、中年男は、おもむろにズボンのベルトに手をかけた。

 

 

「イヤッ!! 誰か・・・ 誰か助けてっ!!!

 ジンちゃ────! ジンッ!!! 助けてっ!!! 

 

助けてっ────────!!!!

 

 

 

「(カオル・・・っ!!)」

 夢だという事はわかっている。

 ただの映像だという事もわかっている。

 それでも────

 

 それでも、自分の名前を呼びながら、悲鳴を上げて必死に助けを求める薫に、

 なんとしても、手を伸ばし、助けようと────・・・・・・

 

 

 

 

  ◇    ◇

 

 

 

 

「カオルっっ────!!!!」

 薫の名を叫びながら、仁は布団を跳ね飛ばし、起き上がる。

 

 

 

 チュンチュン・・・     チキチキ・・・

 

 

                                 チュン・・・  チキチキ・・・

                                                                         

 

 

障子の向こう、庭のほうから聞こえる雀の声。

 

「夢・・・ 本当にあれは、夢なのか・・・?」

 どこまで想像なのかわからない。

 あそこまでリアルな内容だったということは、おそらく・・・

 

「あの戦闘のどこかで、カオルと俺の意識とが、繋がった・・・?

 だから、あんな夢を・・・」

  なら、あの後カオルは、どうなった・・・?

 式神を使って逃げる事が出来たのか、それとも・・・

 

「・・・どちらにしろ。カオルをあんな目に逢わせたのは・・・ 俺、なんだな・・・」

 今日ほど、自分という存在を憎んだのは初めてだ。

 このまま、自分で自分を殺してしまいたくなる。

 

 ・・・しかし、いつまでも呆けているわけにはいかない。

 仁は、ゆっくりと立ち上がり・・・

 

 

『いつまで寝てんだいっ!!!』

 

 

「っっ!!!?」

 思わず反射的に立ち上がってしまう仁。

 

「外・・・?」

 寝間儀のまま、警戒しながら少しだけ扉を開ける。

 すると

 

 

「ったく、どうして早起きの言いだしっぺが眠りこけてるんだい!!」

 紫磨が呆れと怒り半々の顔で、脇に、アニメキャラの柄入りパジャマ姿の葛葉を抱えてズンズンと進んでいた。

 

「う〜〜むぅぅ・・・・・・ わし自身忘れておったのじゃが・・・

 長年のオタク人生で、すっかり生活スタイルが夜行性に・・・

 それにの〜〜・・・ キツネも夜行性じゃったような・・・ そうでないような・・・」

 

  葛葉は寝ぼけ眼(まなこ)のまま、呂律の回りきっていない舌で答える。

 

「は〜〜〜・・・・・・っ 情け無いねえ。

 あんたみたいなのに世界の命運の鍵がかかってるなんて・・・ 癪にも程があるよ。

 いいからさっさと準備しなっ!!!」

 

「うにゅ〜〜〜・・・・・・ もちっと寝かせてくれぇ〜〜い・・・ あと3年・・・」

 唇をネコ・・・ キツネっぽく窄めながら、とんでもない延長を言い放つ葛葉。

 

「うちの旅館で3年寝太郎なんて冗談ゴメンだね。

 ったく、このまま生ゴミに出してやろうかねぇっ!!」

 

「うぅ〜〜〜・・・ せめて姥捨て山に・・・」

 

 そんなやり取りをかわしながら、曲がり角の向こうへと消えていく二人。

 

 

 

 

  ◇    ◇

 

 

 

 

「・・・・・・・・・・・・ プ・・・」

 つい、仁の顔から、笑みがこぼれた。

 そう、今は・・・ 落ち込んでいる時じゃない。

 

 悲しみも罪業も、全てをひっくるめ、前に進むべきだ。

 

 

 いくら謝ろうと、苦行を受けようと、薫は・・・ 許してはくれないだろう。

 

 

「・・・それでも、俺は・・・」

 行かなくてはいけない。

 戦わなくてはいけない。

 

 逢魔の隊長として

 麻衣や、木偶ノ坊たちの仲間として

 

 

 

薫の、只一人の親友として

 

そして・・・

 

 

 

 

  ◇    ◇

 

 

 

 

    一方

 

   淫魔の社  タオシーの部屋

 

 

 

「・・・・・・・・・・・・」

 最高に悪い目覚めで、起き上がった カーマの直属軍師タオシーこと、安倍薫。

 

「・・・また、あの夢・・・」

 薫もまた、仁と殆ど同じ夢を見ていた。

 自分の記憶にある過去、そして・・・ 仁の記憶の過去。

 

「でも、何で・・・」

 考えられるのは・・・

仁との戦闘において、どこかで両者の霊脈回路に、一時的な繋がりが生じ、微弱ながら互いの精神に干渉が起きたという可能性。

 

 ・・・なら、仁もまた、同じ様に私の夢を見たと考えるべきだろう。

 自分ですらも思い出したくない、豚のような男と、それにむざむざ付いて行ったばかりにあんな目にあった、愚かな自分の記憶。

 

あの、後は・・・・・・

 

 

 

 

  ◇    ◇

 

 

 

 

どうして?

 

どうして私ばっかり、こういう事になるの?

 

私、何も悪い事なんて・・・!!

 

 

 

 

 その時、ろくに同級生の意地悪の仕返しも出来ない優しい子であった薫は、初めて呪った。

 自分を捨てた父親を、自分をこんな目に合わせる世界を、神を、

 そして、自分から何かを奪う事しかしない、人間を────

 

 その時

 

 

 

 

そうだ

 

 

 

 

「(え・・・・・・?)」

 その時、薫の脳裏に、確かに何かの声が聞こえた。

 

 

 

 

憎め

 

呪え

 

そして 奪え

 

 

全てのものがお前から奪おうとするのなら

 

神が、人がお前を愛してくれぬというのなら

 

取り返せ

 

奪い返せ

 

略奪しろ

 

それとも・・・

 

このまま、むざむざと犯され、殺され、捨てられ

 

そうして人生を終えるか?

 

悔しいと思うなら

 

呪わしいと憎むなら

 

力を使え────

 

 

 

 

「・・・・・・・・・」

 その瞬間、カチリと、

 薫の中で、何らかの引き金が引かれた。

 

 そして

 

「・・・獲猿(かくえん)」

 ポケットの中の式神符。

 薫に残った最後の友達、そして攻撃の手段に対して

 

「・・・暴れて」

 そう、一言。

 小さく、静かな、そして子供の口から出たとは信じられないほどの、ゾッとする冷たさで、

 薫は、それまで一度も言った事のなかった命令を、口にした。

 

「はははっ。いったい何を言って───・・・ !!?」

 愚かなる、太った中年男は、下卑た笑いを途中で凍りつかせた。

 

 無力な筈の少女の、左ポケットから突如として翡翠色の閃光が放たれ、

 その次の瞬間には、ほぼ完全な密室である筈の部屋の・・・ 男の目の前に、本来の獲猿。

 2メートルを超える巨大猿の化け物が、荒い鼻息を放ち、そして暗闇で光る瞳に、怒りの形相を宿らせ、男を睨んだのだ。

 

 

「えっ・・・?」

 式神なんて単語すら知らないであろう男にとって、その状況を、理解しろというのは、無理な話だった。

 

 

(ブンッ────)

 

 

 そしてその次の瞬間には、獲猿の大きな手が、男の目の前を覆い───

 

 

(バッチィィィン!!!!)

 

 

「げべっ────!!!?」

 中年男は吹き飛ばされ、後ろの本棚に激突する。

 

「うっ・・・ う、ぐぐ・・・」

 まるでトラックに撥ねられたかのような衝撃。

 体を鍛えてさえいない中年男には、重体とまでは行かないまでも、充分すぎるほどのダメージだった。

 

「なっ、何だ!? 何が起こって・・・」

「・・・呪いの術式を、かけました」

「・・・・・・!!?」

 

「おじさんが私のことを他の人に話したり、またこういう事をしようとしたら・・・」

  薫は、部屋の中にある、それなりに高価そうな壷を指差し

 

 

────────────   砕(さい)」

 薫にとっては簡単な、圧力の術式の初歩を掛けた。

 

 

パァリィンッ!!!)

 

 

 壷は、まるで大袈裟な奇術の様に、ひとりでに内側からバラバラに粉砕する。

 

「ひ、ヒィィイッ!!?」

 中年男は、体を萎縮させ怯えるしか出来ない。

 

「おじさんの頭だって、こう出来ますよ」

 嘘である。

 

 いくら天才である薫でも、知識にすらない、殺人の呪術などかけられるはずが無い。

 これは、ただの脅し。

 しかし、愚かな一般人に、そんな事がわかるわけも無かった。

 

「は、はははは、はい・・・」

 顔から汗だの鼻水だのを醜く垂れ流しながら、中年男はオモチャの様に小刻みに、ひたすらコクコクと頷いた。

 

「この家以外にも、家があるんですよね?」

「は、はい。本宅が」

 

「・・・この家がなくなっても、ちょっと困るだけ?」

「え、ええ・・・ そ、そうですね」

「じゃあ・・・ 五分あげます」

「?」

 

「五分経って、それでも目に映る所にいたら・・・」

 そう言って、薫は人差し指で、肥えた中年男の額を指差す。

 

「ヒイイィィィィィ────────ッッ!!!」

 

(ドタバタバタンドタンバタドタガチャッ────・・・・・・)

 

 

 五分どころか、ものの30秒もしないうちに、中年男は四足歩行で、それこそ豚や猪のように一目散に逃げ出した。

 

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 後には、薫と獲猿しか、その場にはいない。

 薫は、図書室から出て、再びシャンデリアの輝くホールに出た。

 

 広い豪華な家は、びっくりするほど静かで、

 何か音があるかといえば、図書室から時折本か何かがバサバサと落ちる音と、後から付いてくる獲猿の足音、鼻息の音ぐらい。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 薫は、無感情に辺りを見渡し、それが終わると、まるで魂が抜けたかのように、天井の光を見て、立ち尽くす。

 そして

 

「・・・・・・アハッ」

 俯き、唐突に笑いだす薫。

 隣にいた獲猿は、疑問を浮かべた怪訝な顔をする。

 母が死んでから、いや、安倍を追い出されてから、薫は一度も笑ったことが無かった。

 

「アハハハハハハッ アハハハハハハハハハハハハハハハッ────!!!

あ───────っはっはっはっははははははは!!!!」

 

 狂ったように、あらゆるものにふっきれた笑いを、喉の奥から搾り出す。

 その笑顔は、その笑い声は、なんとも滑稽で、哀れで、悲しいものだった。

 

 

 

 

 

 

なんだ

 

最初から、こうすればよかったんじゃないか

私は、何の為に我慢していたんだろう

 

最初からこうしていれば、服を破かれることも無かったのに

もっと早くこうしていれば、母さんも死ななかったのに

馬鹿だな、私

 

何でこんな簡単なこと、今まで思いつかなかったんだろう

 

神様も周りの人も、私から何かを奪うのなら

私も奪っちゃえばよかったんだ

 

さようなら、昨日までのイジイジしていた弱い私

おかげで、こんなステキなお城が手に入った

 

次は、何を手に入れよう?

何を 取り返そう?

ああ、服・・・

 

新しい服を手に入れて

あしたの食事と、そのあしたの食事を手に入れて

それから、それから、次は────

 

 

 

 

 

「強くならないと・・・」

 そう、今よりずっと強く、それこそ本当に呪術さえ使えるほどの霊力と

 誰にも負けない知識、知恵を手に入れる。

 

 あの図書室の本を読み終わったら、足りない分は自分で探そう。

 そして、最強の陰陽師になるんだ。

 

 そうすれば、もう誰にも、奪われることは無い。

 これからは、私が奪う側に回る。

 そして、私を嫌う全ての存在に、復讐を────

 

 

────そのために、何を犠牲にしてでも・・・────

 

 

 

 

  ◇    ◇

 

 

 

 

「・・・・・・ふふ」

 そうだった。

 それが、僕の立てた誓いだった。

 

 忘れてはいけない。

 私は違う。母さんとは、違う。

 

 今の僕には力がある。策士としての智力と、千を越える術式。

 もう奇跡は・・・ イレギュラーは起こらない。

 仁の強さも、天神の子の強さも把握した。

 

 あとは、手段を選ばなければ、それでいい。

 僕の最後にして最凶の策で、今度こそ・・・・・・

 

「もう誰にも、僕の・・・ 居場所は奪わせない・・・」

 カーマ様がいて、悪衣様がいる。

 この“今”を奪おうというのなら、誰だろうと・・・ 

 

 

 

────許さない────

 

 

 

 

◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

 

 

 

 

 ・・・・・・ああ、心臓が痛い。

 不幸イベントの描写って心臓にクるなぁ。

 そして何より、僕が一番苦手なのが不幸イベントとゆー(ダメじゃん

 

 「いくらなんでも不幸過ぎない?」というツッコミは既に頂いたんですが、ちゃんと理由がありますので。

 フタナリも含めて、それが明らかになるのはUです。

 

 仁との戦闘で獲猿を失って狼狽したのとか、仁に近寄られた時に刀を振り回しまでするほどパニックになったのも、過去の孤独体験と、レイプ未遂のトラウマから。男っぽい恰好する心理も含めて、実は現在も男性恐怖症なんですよね。カワイソウ

 

 カーマが「あいつは男が直接犯そうとすると心を閉ざすタイプだ」と言ったのはそういうことだったり。

 

 

 宗源は“信念の亡霊。父親としては大失格で、誰もがムカつくキャラ”として予定して作ったんですが

友人に見せてみると「カッコイイー」と言われました。・・・おやおや?

 

 葛葉は出す気満々だったのと逆に、宗源は“出ないだろうなぁ”と自分で思ってたのでビックリ。

 

 それでもう一つ気付いたのは、こんな重たいエピソードの後にエロなんて気分に多くの人はなれないだろうという事と、

 僕自身ちょっとそういうテンションは無理なので。

 次回に回します。

 



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