淫獣聖戦 偽典 「繭地獄」 3

「ただいま戻りました」
 亜衣が、天津屋敷の広間に帰ると、既に初老の女性が座していた。天津麻耶。おばばさまこと先代天津幻舟の姪なので、五十歳を越えているだろうが、若く見える。先代亡き後、傍流ながら天神子守衆の重鎮を勤めざる得なくなり、視察のため全国を回っている。
「お帰り。おねえちゃん」
 傍らには、巫女装束の麻衣も居た。
「叔母様、ようこそおいで下さいました」
「亜衣もお座りなさい」
 はいと答え、麻衣に出された座布団の上に、腰を下ろした。やや肉感的な体躯を紫の留め袖に包んだ姿は、とても品が良い・・・のだが。厳しい表情が、一転。相好を崩すと、急に亜衣に抱きつく。
「あ、あの」
「うーん。セーラー服も可愛いわー。まるで若い頃の私みたい。もちろん麻衣もね」
 あらら。亜衣も、麻衣もその変わり様に調子が狂う。子守衆の公式の場では威厳に満ち、落ち着き払っているが、姉妹の前では気さくな親戚の叔母さんに過ぎない。若い頃にはビートルズにかぶれたり、当時流行りのミニスカートを穿たりして、子守衆一門にあるまじきと白眼視されたこともあるようだが、天神力は幻舟にも匹敵すると言われ、退魔巫女としての実績を多く上げている。
「おっと、こんなことをやりに来たのではなかったわ」
 こほんと、空咳を一つして居住まいを正す。
「今日来たのは、他でもありません。三日前、護摩段を焚いてると、突然緑の火が燃え上がってね。そこに先代御宗家が現れて、悲しそうなお顔をされたの」
「おばばさまが」
「御先代は生前、それはもう、鬼麿様とあなた達の行く末を案じられていたわ。だから、おそらく何かを私に訴えたかったと思うの。ここへはそれを知らせに来たの。そうしたら」
 叔母は悲しい表情をする。
「えっ」
「おねえちゃん。鬼麿様が、熱を出したの」
 麻衣は、表情を曇らせた。
「大丈夫。ちょっとした副作用が出たのよ。さっき霊視もしたけど問題なかったし、往診いただいたお医者様も大事ないって」
 そう。ほっと胸を撫で下ろす。
「でもね、この町に入ったときに感じたのだけど、ここら辺一帯に、徐々に淫らな気が満ちて来ているわ」
「ええ?」
「ただ、それが鬼獣淫界のものなのか、そうでないのかまではわからないけれども」
 姉妹は、さっと強張った。
「まさか、鬼夜叉童子が」
「いや、それはないわ。あのときの波動とは、違うから。とにかく緑の物に気を付けるのよ」
 緑ねえ。やや困惑するが、叔母の表情が和らいだので、姉妹もやや緊張がほぐれる。
「そうだ、亜衣、麻衣。しっかりと私の顔を見て」
 うーむ。
 叔母は、姉妹の眼をじっと覗き込み、見比べるように視線を往復させる。
「ふむ。亜衣。ここ数ヶ月の山修行は、実になったようだね。良く気が錬れているわ。しかし、過信はしないように。それから麻衣」
 過信。叔母の視線が外れた亜衣は、その言葉を反芻していた。
「いろいろな色が見えるわ。それに迷ってるみたいね」
「あのう。鬼麿様のことなんですが。このまま、外出禁止はかわいそうだなーって」
 叔母は、顎をつまむと瞑目した。
「今のところは致し方ないね。もう少し落ち着くのを待たないとね」
「さっき、副作用って言ってましたけど。何の副作用なんですか」
 叔母は、片目だけ開くと、亜衣を注視した。
「どうやら御先代からは聞いてないようだね。鬼麿様にはある種の呪が掛かっているのさ」
「呪」
「うむ。それもあの子のためを考えてのこと。悪いことではないとだけは言っておこうかね」
 そう言って、再び眼を閉ざした。
「何があっても鬼麿様を護るのよ。それが宗家嫡流の使命なのだからね」
 叔母は、翌朝天津屋敷を起った。元々強行軍だったのだ。無理に天津屋敷に寄ったと言うのが真相だろう。



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