淫獣聖戦 偽典 「繭地獄」 1

 蒼く高い空を、雲雀が軽やかに口ずさみながら飛んでいく。天津亜衣は、眩しそうに手を翳し、声の行方を追った。心地好さに飛び去った先をゆったりと眺める。清々しい朝だ。束ねた長い髪から残された、幾筋かの後れ毛を気にして手を伸ばす様は、幾分幼さを残す顔立ちながらも蠱惑さえ漂わす艶やかさだ。凛々しかった眼差しも穏やかさを含み。少女から女への羽化を間近に感じさせる。
 麻衣遅いなあ。そう思ったものの、まだ登校時間には間があった。視線を下げると、暗黒の平安京が地下からせり出した爪痕が残る町の様子が見える。まだ復旧できず瓦礫が転がる廃墟が、転々と残る風景。それは数ヶ月前の惨状を思い出させる。一般人にはそのときの記憶が消えているようで、直下型地震として片づけられてしまっている。それでもよい。平和が取り戻せたのだから。華の蕾も斯くや。麗しくも清楚な表情をやや緩ませて、亜衣は息を吸い込む。木の香りのさわやかさが気分を浮き立たせた。真新しい門柱に陽光が当たり、冴えた色を見せる木目をさすってみる。鬼獣淫界との最後の戦いで、天津家の屋敷の大半は焼失してしまったのが嘘のようだ。全国に散らばった天神子守衆達からの浄財や勤労奉仕のおかげで、屋敷も新たに再建がなり、姉妹も鬼麿達も一週間前戻ってこれた。嬉しくなった亜衣は、そっと誰にも見られていないことを確認すると、腕を広げてくるっとターンした。久し振りに着たセーラー服の短いスカートが輪を作る。今日から新学期だ。姉妹が通う天神学園は、高台にあったので幸い被害は少なく、無事今日の日を迎えた。
「お待たせ、おねえちゃん」
「もう、遅いよう。鬼麿様に捕まっていたの?」
「ううん。鬼麿様はまた寝てたわ。ああ、木偶の坊さんに聞いたんだけどね」
「そう」
 やや言動に不自然さ感じる。亜衣は、門に立て掛けた弓を手に取ると、姉妹揃ってバス停に向けて歩き出した。
「でもさあ、おねえちゃん。少しかわいそうじゃない」
「ええ?何が」
 窺うと、麻衣はやや心配そうに表情を曇らせていた。
「鬼麿様の外出禁止のことよ」
 思わず亜衣は微笑んだ。麻衣は優しい。自分は子守衆宗家嫡流としての義務感が、鬼麿を見る目にある程度加わっているが、麻衣は純粋に母性本能の対象とし始めたようだ。おばば様こと天津幻舟が亡くなってから、自ら保護者たる意識が芽生えてる感じだ。おそらく遅れたのも、鬼麿の顔を見に行ったのだろう。
 しかし、麻衣がねえ。亜衣は、妹を見つめ直す。最近やや太ったのかなと思ったが、そうでもないようだ。娘らしくなった。その言葉が相応しいだろう。面差しや造作、姿形はよく似ているので、意識的に髪型を変えてアイデンティティーをお互いに主張しているが、性格はだいぶ違う。自分は禁欲的で、麻衣は奔放と思っていたが、違いはそれだけではないようだ。
「まあね」
 亜衣はやや気を使って、そう答えた。
「だって、折角鬼夜叉童子を倒したって言うのに」
「でも、お世話になった深吉野天満宮の宮司様が仰ってたように、あれで完全に鬼獣淫界の淫魔衆が滅んでいないとすると」
「うん。そうだけど」
「それに、木偶の坊さんが言ってたけど、あの姿(淫魔大王)になった後遺症なのか、時々熱が出るし、あんなに元気そうなのに突然意識を失ったりするのは、ちょっとねえ」
「目の届かないところで、倒れたりしたら・・・・かあ」
「まあ、かわいそうだけど、もう少し様子を見ないと・・・そうだ。今夜、叔母様が見えたら、相談しましょう」
「うん」
「あ、バス来たよ」
「待って、おねえちゃん」

 私立天神学園講堂−始業式。
「そこで私は学園長として、生徒の皆さんに提案します。この地震で被災された方々の役に立つよう、ボランティア活動を行って下さい。掃除や片づけを行っても良いです。炊き出しを手伝っても良いです・・・・・・以上をお願いして、始業式の挨拶とします」
 うーん。やっと終わった。学園長先生、いい人なんだけど、話が長いのが珠に傷よね。麻衣は、不謹慎にもそんなことを考えていた。そこに。
「それでは、皆さんに新しい先生をご紹介します」
 若い男が登壇した。
「歴史を担当します、桂大介です。よろしくお願いします。・・・・」
 若い男の先生なんて・・・。引き続き何か喋っていたようだが、麻衣の頭は、驚きでその言葉を理解することを怠った。天神学園は巫女を養成する神道系学校が前身で、実質女子校である。男性教師も数名いるが、全て五〇歳を越えており、女生徒の憧憬を集める対象ではなかった。これまで、女生徒の関心は近隣の鳳凰学園の生徒にあるものの、精々遠くから懸想するぐらいのものだった。しかし、この桂なる教師は二〇代前半にしか見えない若々しさだ。身長は一七五cmぐらいか、体格はやや痩せ気味で脚が長い。艶やかな長い髪を後ろで縛っている。下ろせば肩胛骨の下まで届くだろう。顔は小作りで切れ長の鋭い眼差しが印象的だ。ダークグリーンのジャケットが清潔そうで品も良い。
「麻衣ちゃん。麻衣ちゃん」
 肘で突かれた麻衣は、はっとなった。見とれていたのだろう。もう挨拶を終え、降壇するところだった。感じは全く違うのだが、藤原時平が鳳凰学園の生徒に化けた姿、光時にやや似ている気がする。
「何、美和ちゃん」
 谷崎美和。ツインテールの髪型にやや丸顔が可愛い同級生に向き直る。
「桂先生って、男前よね。それにおじさん先生達と違って若いし」
「うん。そ、そうね」
「あー、麻衣ちゃん。顔赤い。さては」
「顔赤いのは美和ちゃんもじゃない」
 ふふふ。微笑む姿は、亜衣、麻衣には及ばぬものの十分綺麗で、朗らかな性格が誰からも好かれる、妹にしたくなるタイプだ。
「でもさあ、競争率高くなるよねーきっと」
 あら、私はと言い掛けたが、敢えて曖昧な笑顔を美和に向けるだけにした。



TOP       NEXT