淫獣聖戦後伝・羽衣淫舞(2)

 山奥の庵に東の窓から日差しが入る時刻は遅い。
 亜衣と麻衣、二人の姉妹が寝るにも食事をするにも稽古をするにも使う木の床の室内に山の朝日が差し込んで、二十畳ほどの広い一部屋があるだけの庵の中が明るくなった頃、そこにはもう姉妹はいなかった。
 庵や祠の周囲はすでにきれいに掃き清められている。
 天津姉妹は小さな祠の前で朝の祈祷を終えようとしていた。
 最後に両手を合わせて、亡くなった祖母に祈りを捧げ、二人は静かに朝の祈祷を終えた。
 「ふー、おなかすいたぁ」
 麻衣がそう言っておどけた時、亜衣は何かを感じて動きを止めた。
 「えっ、なに?」
 首を傾げる麻衣を、「シッ」と唇に人差し指を当てて制して亜衣は音もせず立ち上がった。
 (誰か、来る)
 こんな山奥の庵に、人が訪ねてくるはずもない。
 (足音は数人・・・)
 その足音は尾根の方から降りてきた。
 「あれ、こんなところに神社がある」
 足音の中から、そんな声がした。若い男性の声のようだった。
 亜衣は声のした方に歩を進めた。その後ろを麻衣が追ってくる。
 林の中のけもの道から、登山の装備をした数人の若者が降りてくるところだった。
 「あっ、人がいる!」
 と、少し無遠慮な声をあげたのは女性の声だった。
 男性三人、女性二人のグループのようだ。
 彼らは亜衣と麻衣の前まで降りてきて、「おはようございます」と明るく声をかけた。
 そんな浮ついた雰囲気を嫌う亜衣は黙っていたが、麻衣は愛想良く、
 「おはようございます、登山ですか?」
 と言葉を返す。
 「ええ、それが途中で引き返さなくてはいけなくなってしまって、鬼無里の村落に出たいのですが、道がわからなくて」
 グループの中の一人が頭を掻きながら言った。
 「あ、鬼無里だったらここを真っ直ぐ降りていけば行けますよ、ねえ、お姉ちゃん。」
 麻衣は湧き水を汲みに行くために作った細道を指さした。降りていくと裾花川の支流、小川の水源に出る。そこを沢づたいに山を下れば鬼無里の村落に出られる。
 亜衣は無表情で黙って頷いた。山籠もりの修行の初日から余計なことで日課を乱されたくない。早く行き過ぎていってほしいのだ。
 話しかけてきた青年の爽やかな様子も、亜衣にとっては不快だった。妹の麻衣がまた心を乱されそうな気がしたからだ。
 「そうですか、ありがとうございます。あっ、でも少しだけ休ませていただいてもいいですか?軒先でもかまいませんから。」
 目の前にいる長身の端正な青年は品が良く、礼儀正しいのだが、亜衣には釈然としないものがあった。断ろう、と思って口を開きかけたが、一瞬遅かった。
 「ええ、どうぞどうぞ。」
 亜衣が口を開くより前に、麻衣はもうにこやかに返事をしてしまっていたのである。

 「ちょっと、麻衣。修行をさぼる口実にしようと思ったってダメですからね。」
 五人を庵の中に通して、姉妹はお茶くらいは出そうと厨房に立っていた。麻衣の首筋がさっと紅くなったのを見ると、どうやら図星だったらしい。
 「ち、違うわよ、困ったときはお互い様でしょ。」
 ごまかすときに少し早口になるのは麻衣のいつもの癖である。
 「まあ、いいわ。でもあの人達、ちょっと変じゃない?」
 亜衣は声をひそめて麻衣にささやいた。
 「え、どうして?」
 麻衣はどうやら何も気にならなかったようだ。
 「だって、あの背の高い人、他の四人を供に従えているみたいだったわ。」
 「そうかなあ。」
 「そうよ、女の人は二人ともうっとりした顔で彼を見てるし、男の人たちは何もしゃべらないで後ろに控えてるみたいだったし。」
 「それはあの人がきっと人気があってしっかりしてるからよ。品もいいし、かっこいいし、礼儀正しいし・・・」
 どうやら亜衣の心配は当たっていたようで、麻衣はもう浮き浮きとした表情になっている。
 「もう。浮かれてないで、お茶飲んだら出て行ってもらわないとダメよ。」
 「はーい、わかってます、お姉さま。」
 麻衣は肩をすくめてみせ、それからそそくさと淹れたてのお茶を持って厨房を出ていった。
 (まったく、はしゃいで。でも仕方ないわね、ずっと忙しくて息抜きの暇もなかったし。)
 亜衣は苦笑しながら麻衣を見送った。
 感情を素直に表現できる麻衣が羨ましくもある。双子なのだから亜衣だって麻衣とまったく違った感情を持つわけではない。修行に対する思いの強さと、天神子守衆当主としての責任感が、亜衣に同じ年頃の少女達のような無邪気な感情表現を拒ませているである。
 もっとも、男性への興味の強さが麻衣に比べれば格段に少ない、ということもあるのだが・・・。
 (ふぅ・・・)
 修行初日にして、思わぬことで心が揺れている自分がもどかしくて、亜衣が小さなため息をついた時だった。 「えーっ!」
 という麻衣の歓声が聞こえてきた。
 (まったく。またあんな大声を出して。はしたない)
 あとでお説教しなきゃ、と亜衣は思った。
 が、続いて麻衣の声が亜衣を呼んだ。
 「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
 もう我慢できない、来客中とは言っても一言注意しないと。
 亜衣は不機嫌そうに、大部屋に戻った。
 「麻衣、あのね」
 と、亜衣が言いかけるのも気にせず、麻衣は亜衣を振り返って満面の笑顔だった。
 「お姉ちゃん、こちらの方ね、秋生神社の宮司の息子さんなんですって。」
 「秋生神社・・・?あっ、じゃあ斎藤さんの?」
 「そうそう。こちら、斎藤孝明さん。」
 秋生神社といえば京都の名刹として名高い寺社である。宮司の斎藤忠正は仏門の世界でも最上位の神職の一人で、亜衣もよく知っている。そもそも斎藤という姓は藤原氏の連枝で、斎宮を司る一族のものであり、忠正はその直系の家柄だという。
 斎藤宮司は亜衣や麻衣の祖母幻舟の旧知で、幻舟の生前にも何度かお目にかかったことがあった。
 「そうなんですか。初めまして、天津亜衣です。」
 亜衣は麻衣の隣に座って丁寧な挨拶をした。その挨拶にさえ寸分の隙をも感じさせないのは亜衣らしいところである。
 「あっ、天津麻衣です。」
 慌てて麻衣が頭を下げる。
 「あはは、そんな堅苦しい挨拶はいいじゃないですか。」
 麻衣の様子が可笑しかったのか、双子の姉妹の所作の違いが滑稽だったからか、孝明は爽やかな笑顔で言った。
 「お二人のことは父からも聞いていますよ。たしかお祖母様の葬儀にもお伺いしたはずです。」
 「ええ、その節にはお世話になったんです。」
 天津神社の再建に力を注いでくれたのも斎藤宮司であった。
 秋生神社からも多額の寄進を受けている。この分祠にしても、斎藤宮司の縁戚からの寄付があって建立が実現したようなものなのだ。
 「父からお二人が山居で精神修養をするとは聞いていましたが、こんな山深いところだったとは驚きました。」
 「ええ、昨日ようやく片づいたところなんです。」
 孝明の澄んだ瞳が真っ直ぐに向けられていて、さすがの亜衣も心臓の鼓動が速くなってきた。赤面しているのではないかと気が気でない。
 「あ、あの、もしよかったら一緒にお食事していきませんか?」
 麻衣はもうすっかり耳朶を赤くしながら、浮かれた声になっている。
 「麻衣、お引き留めしたらご迷惑よ、急いでいらっしゃるのに。」
 亜衣がそう言って麻衣をたしなめたのは、この場に息苦しさを感じ始めているせいでもあった。
 亜衣は鬼獣淫界から送られた最強の刺客、邪淫王カーマと出会った時のことを思い出してしまっていた。
 藤門秀人と名乗ったカーマの冷たく整った端正な顔に、あの時一瞬だけ心惹かれる思いがあった。そのせいで気がつかなければならない罠に気づかず、そのことが天神学園の崩壊と幻舟の死、そして姉妹への過酷な陵辱へと続くきっかけになってしまった。
 今、目の前にいる爽やかな青年にしても、あるいは「敵」なのかもしれないのだ。
 斎藤宮司の令息のことは、宮司からも聞いたことがある。
 「いやあ、うちの倅は山登りに凝って、まるで修行に身が入らんのですよ。お恥ずかしい限りなんですがね。」
 と笑っていた宮司の言葉を思い出す。それに端正な顔立ちも、鳶色の瞳も宮司にそっくりだった。
 「そういえば」
 亜衣は息苦しさから逃れたくて、孝明を試す気持ちになった。
 「斎藤宮司の弟さんで、静岡の・・・えっと、なんていう神社だったかしら」
 「ああ、叔父の忠宗ですね。静岡の駒寄神社にいましたが、今は吉野の丹造神社という小さな神社で宮司をしてるんですよ。」
 (正解!)
 孝明の答えに、亜衣はホッとした。
 「叔父様にもお世話になったんです。お会いになることがあったらよろしくお伝えください。お父様にも。」
 「ええ、もちろん。」
 孝明が屈託のない笑顔で肯いて、その後は和やかな談笑になった。
 疑念を解いてあらためて五人の登山者を見ると、今時の大学生には珍しく真面目で、男女混合のグループでありながら浮ついた様子は感じられなかった。
 幾多の惨事を経験して、疑り深くなっているのかもしれない、と亜衣は反省した。
 美樹と優奈という二人の女性の間には、頼もしい先輩と可愛らしい後輩という柔らかな雰囲気と規律が感じられ、亜衣と麻衣の姉妹を見ているようである。
 「えーっ、双子なの?亜衣さんがお姉さんだと思った。」
 と驚きの声を上げる優奈の様子などは麻衣とそっくりだった。
 「そうでしょう、よく言われるんですよ。」
 麻衣がそう答えて、優奈と顔を見合わせて笑った。どうやら似たもの通しで気が合うらしい。
 「でも偉いわね、いくら宗教の世界にいても、こんな山奥では寂しいでしょう。」
 美樹は落ち着いた様子で、修行の身の姉妹をねぎらった。
 「まだ来たばかりですから平気ですけど、秋から冬にかけて寂しくなるかもしれないですね。」
 天神学園では男勝りだった亜衣も、女性らしい静かな落ち着きを身につけ始めていた。
 「ねえ、麻衣ちゃん、美樹先輩とお姉さん、ちょっと似てない?」
 「ほんとですね、美樹さんも怒ったらコワそう。」
 優奈と麻衣はそんなことを小声で話してはクスクスと笑っている。

 横川という小柄な青年は人見知りをするのか、大人しくてあまり会話に入ってこようとせず、仲間の和を乱すでもなく、温和な表情で相づちを打っていたが、山の話になると熱心にその魅力を語った。そんな横川の話を肯きながら聞く四人も含めて、一人一人が山を愛し、自然を愛しているのがよくわかった。
 気になったのは小塚という太った青年くらいで、小塚は大きな体に似合わず気が小さいのか、姉妹を前に気後れした様子でしきりに汗を拭きながらも亜衣や麻衣の巫女衣装にしきりに興味深そうな視線を向けてくる。

 人の気配もない山奥での暮らしということで、亜衣も麻衣もいわゆる洋装の下着をつけていない。
 緋色の行灯袴は胸のすぐ下あたりで腰紐を締めるから、どうしても胸の膨らみを強調するような装いになる。袖長の白衣の下には長襦袢と肌襦袢とを着けているから下着をつけない、という表現は正しくないのだが、それでもブラジャーに比べれば頼りない。
 小塚が分厚い頬肉の奥から、細い目でチラチラと胸元を盗み見るのが、亜衣には不快だった。
 若くて健康な男性が女性に関心を持つのは仕方のないこと、というくらいの理解は亜衣にもできる。
 鬼麿のように抱きついてくるようなことがないから、気にしないようにすればすむことだ。
 しかし鬼麿の明け透けな言動には慣らされていても、小塚の陰湿な視線はねっとりとまとわりついてくるようで背筋に悪寒が走る。
 (孝明がいなければさっさと追い帰してやるのに)
 と亜衣は思った。
 「あっ、そろそろ行かないと。今日中に東京まで帰らないといけないので。」
 時の経つのを忘れていたのか、孝明が少し慌てたように立ち上がった。他のメンバーも名残惜しそうに席を立つ。
 「亜衣さん、麻衣さん、修行の邪魔をしてすみませんでした。機会があったら、父の神社にも遊びに来てください。」
 「ありがとうございます。天津の姉妹は元気に修行に励んでいたとお伝えください。」
 亜衣と麻衣は早朝の珍客を見送ると、顔を見合わせて微笑み合った。
 山奥の分祠での勤行初日、思いも寄らぬことで予定が狂ってしまったが、焦ることもない。そよ風が木々の若葉を揺らして通り過ぎていく。時が止まったようなこの地には時間はあり余るほどあるのだ。
 晴れ渡った空の高いところを鳶が一羽、大きな輪を描きながら飛んでいるのを見上げて、亜衣は大きく両腕を広げて伸びをした。



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