淫獣聖戦 偽典 「繭地獄」 19

 天津屋敷。広間。
 閉じかけた鬼獣淫界から、何とか抜け出してきた一行は、弓道場で亜衣と麻衣に着衣を身に付けさせ、車で戻ってきた。姉妹は風呂で身を清めた後、ここに座っていた。
「それで、あの緑の淫魔の名は」
「たしか、葛太夫とか。ねえ、おねえちゃん」
 麻衣はやや元気を取り戻していたが、亜衣は軽く頷くだけだ。がっくりを肩を落とし、精神的な落ち込みを見せていた。麻衣は、こんな弱々しい姉の姿を見たのは初めてだと思った。
「すまぬな。駆けつけたのが遅かったようだ」
「いいえ、叔母様は悪くありません。全ては私の弱さ故です」
 亜衣は絞り出すような、声で遮った。しかし顔は、相変わらず下を向いている。
「天神子守衆宗家嫡流は、返上したく。私にはその資格はありません」
「お、おねえちゃん」
 思わず膝立ちになった麻衣を、目で制する。
「ふむ」
 叔母は、顎を掴んで摘んで考える風だ。
「なぜ資格がないと思う。立派に鬼麿様を護ったではないか」
「そ、それは、叔母様が来ていただいたお陰で・・・あのとき助けていただかねば、もう少しで、葛太夫の奴隷に成り下がるところでした。それも自ら望んで」
 ぽたぽた。畳に水滴が落ちる。亜衣の涙だった。
「今もそう望むのか」
 亜衣は首を振った。
「でも、また同じ状況下に立てば・・・その、自信が」
「なるほどな」
「では返上をお許し下さい」
「まあ、待て。これを見よ」
 叔母は懐から、紙を取り出した。
「お札・・・ですか」
「午王紙と言ってな、本来厄除け使ったり、誓約つまり約束を書いて、違えるものが有れば罰が当たるというものだ。が、ある種の輩は、霊験灼かだけに呪術にも依代として使う。見覚えはないか」
 亜衣が、ぼそぼそと呟くように答える。
「そう言えば、鬼麿様が急に大人になった時に、これに似たものを」
「そうだ。この一枚だけ絵文字の違うものが、鬼麿様の額に貼ってあった。この呪文にて我が、天神子守衆の呪を排除した。つまり、鬼麿様を一時的に大人にする効力があるのだろう。おそらく、裏密教の輩が使うものだ」
「裏密教?」
 姉妹は額を寄せて、図案とも見える文字を注視した。全く読めないが、その一枚は、他の二枚よりもかなり文章も長く複雑だ。
「こっちの二枚は」
 好奇心に勝る麻衣が、叔母に問うた。
「お前達、二人の額に貼ってあった。剥がすまで目には見えなかったがな」
「えっ。そ、それで、その効力は」
「しかとは分からないが、この簡単な図案だけに、天神力に対抗すると言うよりは、人の精神を操るものだと思う。子守衆に伝わる古文書にそのような記述があったはずだ」
「お前達は、権現とか本地垂迹と言う言葉は知っているか」
 姉妹は顔を見合わせた。
「何となく、権現は聞いたことがありますが、意味までは。後のはさっぱり」
 亜衣の言に、麻衣も頷く。
「権現も垂迹も、神のことだ。ただし、それは仮の姿で、本地、つまり、その真の姿は、仏という考え方だ」
「えっ。でも天神も神道の神も日本古来のものですし、仏教はインド伝来ですし、別の宗教ですよね」
「そうか、知らぬか。江戸時代まではな、神と仏は一体に扱われることが多くてな。それを習合というのだが」
「ええ?」
「神社の中に寺院が有ったり、その逆もある。二人は日光東照宮に入ったことがあるか?」
「はい」
「あそこには、輪王寺という寺もある」
「ああ、そういえば。何か変な感じがしたんです」
「うむ。明治期に国家神道を推し進めるために、廃仏毀釈という運動が起こってな。これで神社と寺院が峻別されたのだが・・・」
「はあ。ただ、それとこんどのことと、どんな関係があるのでしょうか」
「今回の敵だった葛太夫というのは、鬼獣淫界の仏教に偏った呪術だけでなく、神道系の技も使うということだ。恐ろしい敵だ」
 麻耶は瞼を閉じた。
「確かに、私たちでは歯が立ちませんでした。でも叔母様が、撃退してくれたんですから」
「いや、勝手に退いたのだ。先程話の出た、鬼夜叉童子の復活の儀式が終えるという、第一目的を達したので、我々に勝てるかも知れないというチャンスよりも、像の危機を確実に排除したかったのだろう。戦略というものを心得ている。だからこそ恐ろしいのだ」
 叔母は、湯飲みを手に取ると、一口喫した。
「ふう。あのまま戦えば、わたしとて破れていたかも知れん。つまりお前達と私とそれほどの差があるわけでない。それに、この先、私は年齢から言って衰えるが、お前達はこれからだ」
「でも。私は」
「どうした」
「私は技や天神力もそうですが、心も弱いんです。今度の戦いで、思い知らされました。それは、札だけのことではないです。それに、迂闊な判断で、鬼麿様を危機に陥れました。鬼獣淫界に入る段階でもっとよく考えれば」
 切々と訴える亜衣の言葉を聞いていた叔母は、ゆっくりと眼を開いた。
「亜衣。天神様は、何故我々に力を貸して下さるか、考えたことがあるか」
「それは子守衆だから・・・ですか」
「そうかな。もちろんそれもあろうが、子守衆の全てに天神力が備わっているわけではない。修行を積んでもだめな者もある」
「・・・」
「天神の後胤たる鬼麿様を護り、正義を信じて行うからだ」
「正義?」
「鬼麿様を護るためだけならば、確かに鬼獣淫界に突入せず、時を待った方が良かったであろう。しかし、あの娘を見殺しにするのが、天神様の御心に叶うのか」
「・・・」
「だから、私は亜衣は間違っていないし、天神様の御心に叶うと思う。それから、自分が弱いと言ったな」
「は、はい」
「確かに弱い」
 叔母は、亜衣の瞳の奥を覗き込んだ。
「だが、私も弱いのだ。いや、人間の腕力や天神力などたかが知れている。一人一人の人間は本来弱い。だから真に強くなるためには、まず自らの弱さを認め、どうするか考えねばならない。石器時代からそうして様々な動物や外敵から身を守ってきたのだ。私は思う、お前達二人がこれからも協力し合えば、もっともっと強くなれるとね」
「うぅ」
 姉妹は、二人とも涙を溜めている。
「亜衣、麻衣。今回鬼夜叉童子の復活を阻めなかったと言う意味では負けたかも知れないが、鬼麿様に大事なかった。辛いかも知れぬが、弱いと知っただけでも、収穫があったとも言える。これを前進する契機として欲しい」
「叔母様」
 亜衣と麻衣は、叔母に抱きついた。二人の頭を撫でつつ。
「ああ、私も退魔師の頃は、何度も御先代に助けられた。お前達にはお互いの姉妹が居る。うらやましいな」

 天津屋敷の廊下。
「麻衣」
「あら。鬼麿様。おはようございます。良いお天気ですね」
「麻衣、行くよー。学校遅れちゃうよ」
 玄関から姉の声が聞こえる。
「はーーい。今行くわ」
「麻衣。待ってくれ」
「何です、鬼麿様」
「ま、麿のこと好きか」
「はい。もちろん好きですよ。本当の弟みたい」
「いや、そうじゃなくて・・・」
 どんどんと足音わざと立てて亜衣が戻ってくる。
「鬼麿様、麻衣を引き留めないで、学校に行かなきゃならないの」
「ええい。うるさい。私と麻衣は愛し合った仲なのだ、邪魔するな」
「愛し合った?どういう意味よ、それ」
「お、股のはめあいじゃ」
「おまっ・・・言うにことかいて。馬鹿じゃないの。このエロ餓鬼」
「やったよな。麻衣」
「い、いいえ」
 麻衣は、ぷるぷると首を振って否定する。
「鬼獣淫界に行って、麿が大人になって、愛し合ったじゃないか」
「大人になった?夢でも見てるんじゃないの」
「夢?」
「こんな馬鹿ほっといて、行くわよ」
「で、では鬼麿様行ってきます」
「麻衣」
 夢。そうかも知れない。自分が大人になるなど、確かに荒唐無稽すぎる。しかし、あんな気持ちが良く、感触まで残る夢があるのだろうか。
 そうだ別の人間に聞いてみよう。
「木偶の坊、木偶の坊は居ないかーーー」

終わり



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