淫魔聖伝2(仮称)

・出会いと遭遇(第2話)


 その日の昼下がり、「JR最京線・大鳥学院前駅」周辺は、ジメジメとした不快な湿度と記録的な猛暑に見舞われていた。
 道ゆく人々の垂れ下がった顔には夥しい汗がスライムのようにこびりつき、セミのけたたましい鳴き声が、建ち並ぶビル郡を蝋細工のごとく蕩かせてみせる。
 さながらサウナ、というより中華まんの蒸篭の中。虫眼鏡で焼かれる黒アリの気分。つまりは、クソ暑い日であった。
「ふー、ずっと運転しっぱなしだったから、肩こっちゃった」
 店の一番奥に位置する窓際のテーブルに腰を下ろすと、天津亜衣はパンパンに張った肩をライダースーツの上から揉みつつ、冷えたいちごシェークをすすった。はたから見れば暑苦しいだけの全身ツナギも、彼女の抜群のプロポーションを包むとやけにカッコよく、どこか艶かしく映る。
 何気なく組みかえた足も、息を呑むほど長く、色っぽい。
「あーあ、こんな事だったら日焼け止めでも塗ってくればよかったなー」
 その対に荷物と腰を下ろしたのは、亜衣の妹・麻衣であった。大きく露出した肩や背中が、長い間日の光に晒されたおかげで真っ赤に日焼けしている。キャミソールの胸元をパタつかせると、本来の白い肌がかえって際立ち、もはや言うまでもなく、男性客の視線は彼女の健康的な色気に吸い寄せられていった。
「麻衣、はしたないから止めなさい」
 ピシャリとたしなめる亜衣に、麻衣は「はーい」と気の抜けた返事を返し、首をすくめて姿勢を正した。それでも男性客の目が二人に注がれ続けたのは、向かい合って座る二人の少女があまりにも可愛く、しかも合わせ鏡のようにそっくりだったからに他ならない。

 姉の天津亜衣と、妹の天津麻衣。二人は言わずと知れた、天神学園が誇る双子の美少女姉妹にして「天神羽衣一の舞」伝承者である。なぜ二人が、場違いとも異世界とも思えるこの場所にいるのか。事の成り行きはこうである。
 亜衣は弓道、麻衣は長刀と、それぞれ全国トップレベルの腕前と数々の実績を持つ二人に、天神学園と交友関係にある大鳥学院より「是非、我が校の臨時特別指導員として、御二方を招聘したい」との伝令文が届いたのは、つい三週間ほど前の事であった。
 自身の腕前に正当な評価を受けたとして、亜衣はこの件に二つ返事で快諾し、ちょっとした旅行気分に小躍りした麻衣もまた、ニッコリと一発OKした。
 かくして、さきごろ納車された亜衣の『SV400S』に2ケツで跨り、意気揚揚と旅立った二人であったが、着いた先の暑さが尋常ではなかった。
 山崎まさよしが歌うところの「夏がダメだったりセロリが好きだったり」する二人は、ともにセロリはキライだったが、ともかくこの嫌がらせみたいな太陽光を避けるべく緊急避難したマクドナルドで、ついでに少し遅めの昼食を取る事にした、というわけである。さて、舞台は冷房がガンガン効いたマクドの店内に戻る。

「でもいいなー、お姉ちゃんだけバイク乗れて。アタシも欲しいよ」
 自分と瓜二つの顔を、姉より若干ひとなつっこい目でうらやましそうに眺めつつ、麻衣は紙コップのオレンジジュースをストローでカラカラと回す。
「そういうセリフは、原付試験に受かってからねー。アンタ、この前ので2連敗だっけ」 
 妹より若干凛々しい眉毛をいたずらっぽく上げて、亜衣がからかうと、麻衣はちょっとすねた仕草をして、甘えた声で返してみせた。
「まー、お姉ちゃんのイジワル。だって標識なんて、あんなにたくさん覚えられないよー」

 まるで天神様のお告げでもあったように、突然「バイクが欲しい」と言い出した亜衣が、猛勉強の末に普通二輪免許を取得したのは、今から一年とちょっと前の事である。
 それに触発されたのか、最近になって原付免許を取ろうと決意する麻衣であったが、机に向かって本を開くと5分以内にノンレム睡眠に陥る彼女の悲劇的体質が、筆記試験の悲劇的な成績を生み続けていた。
「やれば出来る子なのにね〜」
 母親のような溜息をつく亜衣の指導が報われるのは、現時点から2ヶ月後の事である。

「それにしても…、アンタよく食べるわね〜」
 ダブルチーズバーガー2つほどで満腹の亜衣を尻目に、麻衣は嬉々とした表情で3つ目のビッグマックをモシャモシャと食べる。屈託のない笑顔で頬張るその様は、どこか無邪気で微笑ましい。
「いいじゃん。育ち盛りだもーん」
「後で『体重増えちゃった〜』とか言って泣きついても知らないからね、アタシ」
「ふふーん、ちゃんと運動してるから平気でーす」
 それ以前に亜衣に言ってもどうする事もできないと思うのだが、確かにピンク色のキャミソールからのぞかせるヘソ廻りは砂時計のように細く、キュッと締まっている。理想的なヒップラインを包むローライズも、そこいらのタレントなんぞよりよっぽど似合っていたし、キマッていた。
「ほんと、いつまでたっても子供なんだから…」
「そんなの、いまだに毎月『りぼん』読んでるお姉ちゃんに言われたくないもんね〜」
「ぐっ…」
 いいカウンターであった。さっきのお返しとばかりの言葉に、亜衣はソファからズコッと沈み、飲みかけのシェークを気管へ詰まらせそうになった。 
 ストローを咥えたまま押し黙ってしまった姉にニッコリ笑顔を向けながら、麻衣は残りのハンバーガーをペロリとたいらげる。もっとも、麻衣だって毎月『なかよし』を読んでいるので人の事は言えないのだが。

 茶レンガを敷き詰めた舗道にまだらの影を落とす街路樹や、極彩色で描かれた大小さまざまな看板が、原色の光にどこか現実感のない輝きを発している。
 食事も終わり、気安く声をかけてくる輩を振り手で追っ払いながら、亜衣は蒸せ返るような暑さであろう窓の景色を、見惚れるわけでもなく眺めていた。太陽に照らされた横顔に、大人びた艶と少女のあどけなさが美しく現れている。
「ねえお姉ちゃん、そろそろ行こうよぉ」
 ミュールをつま先でプラプラさせながら、麻衣は手持ち無沙汰に髪の先を弄る。毎日天文学的な時間と手間ヒマをかけてトリートメントしている自慢のセミロングである。枝毛など、一本たりともあろうはずはない。
「ん?うーん」
 さすがに少し疲れたのか、それとももう少し涼んで行きたいのか、亜衣は頬杖をついたまま、珍しく煮え切らない返事をした。腕にはめた時計の針は、すでに15時過ぎを指していた。
 と、亜衣の目の前を見覚えのあるバイクが横切った。
 一瞬の間ボーっとしていた亜衣だったが、事態に気づくと跳ねるように立ち上がり、思わずテーブルに掌をバン!!と打ちつけて大声で叫んだ。
「アアーーーーーーー!!アタシのバイクーーーーーー!!!!!!!」
 麻衣を含めて店内にいた全員が振りかえるより早く、亜衣は血相を変えて店の外へと徐に走り出していた。
 地元で彼女のバイクを盗もうなんて勇敢な方は一人もいらっしゃらないため、亜衣は普段からバイクのキーを抜くという基本的習慣をおろそかにしていたのだった。
 そんな後悔と自責の念より先に、彼女の足は盗まれたバイクを追いべく、「ちょ、ちょっとどうしたのお姉ちゃん!!」とオロオロする麻衣を置きざりにして猛ダッシュを開始した。
 ガラも頭も悪そうなワルガキ三人を乗せたSV400Sは、人をおちょくったようなダミ声とともに、向かってくる車をジグザクにかわしながら国道を逆走していく。あちこちからクラクションが鳴らされると、三人は窓ガラスを蹴ったり意味不明な雄叫びをあげたりと、思いつく限りの悪態をついてなおも蛇行運転をし続けた。
「コラー!アンタ達待ちなさいってのー!!」
 追いかけてくる持ち主の存在に気づいた一人が、まっ黄色の歯でゲラゲラと下品に笑い、中指を突き立てる。と、他の2人もつられて怪鳥のような奇声を出し合った。
「まだローンだって残ってるんだからねー!!!」
 ちょっとだけ本音も交えながらも、亜衣はフェンスを飛び越え、いちゃつく邪魔なバカップルを張り倒し、ドサクサ紛れに尻を触ろうとする輩に左フックをかましつつ懸命に走った。しかし、いかに俊足を誇る亜衣の足とてバイクに追いつけるわけはない。そんな彼女を嘲うかのように、ワルガキ共を乗せたバイクは、見る見る遠ざかって行った。

 ところが。亜衣が諦めかけたその時、横断歩道のど真ん中、ワルガキ共の駆るバイクの行く手をさえぎるようにして、一人の若者が立ち塞がった。
 遠巻きに見ても、身長は亜衣より少し高いぐらいだろうか。逆立てた真っ白のベリーショートも勇ましく、紺色のタンクトップの上から羽織ったジャケットが、ヒーローのマントよろしく風になびいている。どこからともなく現れたその若者は、間近に迫るバイクにたじろぎもせず、むしろ悠然と涼しげな眼差しでワルガキ共を睨みつけていた。そんな彼を轢き殺す勢いで、バイクはさらに加速し始める。
「あ…」危ない!と、思わず声を出しそうなる亜衣。それが言葉になるかならないかの間に、知能指数の低そうな雄叫びをあげるワルガキ共は、若者の横を寸前のところで交わすと、罵倒を叫びながら通りすぎていった。
 その直後、ワルガキの一人が異変に気づいた。いくらスロットルを回しても、バイクが加速しない。そうこうしている間に、ワルガキ共を乗せたバイクはヒョロヒョロと減速し、車道脇のガードレールにパタンと倒れ込むと、乗っていた三人ばかりのバカがうまい具合にクッションとなって、この上なく優しく停車した。
 なにがなんだか分からない亜衣に、件の若者がゆっくりと近づいてくる。
「な、なに…?なんなのアンタ」
 呆然とする亜衣の前でピタリと立ち止まると、若者は若干上から亜衣の目を見下ろしつつ、無言無表情のままなにかを手渡した。
 見るとそれは、「交通安全」と書かれたお守りに、チェーンのちぎれた緑色の丸いウサギのような生物を象ったキーホルダー、そして車のキーだった。驚きで言葉も出ない亜衣に、表情一つ変えない若者が初めて口を開く。思ったよりも、少し高めの声質だった。
「通りがかりにたまたま声が聞こえたんで…。悪い、とっさだったから、引き千切ってしまった…」
「こ……これって…!?」
 彼が手渡したのは、亜衣のバイクのキーであり、お守りとキーホルダーは、それにくっつけていた物だった。
 バイクが彼の横を通りぬけるその刹那に、若者はバイクからキーを素早く、文字通り目にも止まらぬ早業で抜き取った、という事だろうか。にわかには信じ難い話しだが、亜衣の手に渡された「それ」がある以上、他の推測や立証は不可能と言える。
 間近で見ると、青年というより少年といった雰囲気の顔立ちだが、歳はおそらく亜衣より2,3上だろう。見た目痩せ型で、肩幅もそれほど広いわけでもないのに、緊張感のある表情からは寂寥感にも似た威圧を感じさせる。それにしても、彼はどこから現れ、どこの誰なのだろうか。亜衣の頭の中はいっぺんに混乱してしまった。
 と、そうこうしている間に、ようやくバイクの下から這い出してきたワルガキ三人は、若者の姿を確認するなり、お約束のようにインネンをつけるべく寄って来る。
「ア、アンタ達!」
 即座に臨戦体勢に入ろうとする亜衣を、若者がスッと腕で制した。
「ちょ、ちょっと!なんなのよアンタ」
 キッと噛みつく亜衣に応えもせず、若者は踵を返すと、少し前屈み気味の背中を向けた。なぜか、見た目より一回り大きく思える背中だった。
「……ジョウだ」
 背中越しに、若者が吐き捨てるように言い放つ。
「え?」
「オレの名はアンタじゃない。ジョウだ」

「ハァ…ハァ…待ってよー、お姉ちゃーん」
 息を荒げてようやく追いついた麻衣が目の当たりにした物は、三人のワルガキを不思議な技で蹴散らすジョウの勇姿と、それを呆然と見守る姉の姿であった。
 奇妙な光景だった。殴るでもなく、蹴るわけでもなく、かと言って投げでも極めでも、ましてや合気でもない。
 あえて言うなら『触る』。繰り出される拳に、振り上げられる足に、はたまた突っ立っている肩に、ただポンッと『触る』。ただそれだけで、ワルガキ共は面白いように宙を舞い、プロペラのように一回転した後まっさかさまに地面へと墜落していった。
「なに、なにあの技。あんなの見た事ない…」
 趣味と実益を兼ねて調べてきた格闘技の知識は、自分でもかなりのものだと自負している亜衣である。『PRIDE』だって、全試合スカパーで観ている。しかしジョウの操る術は彼女にとってまったく未知の物であり、彼の存在と同様に摩訶不思議としか言い様のない物であった。
 そうこうしている間に、ボコボコに叩きのめされたワルガキ三人衆は、「お、おぼえてやがれー!」と月並みな捨てセリフを吐いて、その場から転がるようにして逃げ出す。
「あ、お姉ちゃん。あいつら逃げちゃうよ!」
 麻衣の言葉にハッと我に返り、亜衣は三人衆の逃避路を遮るように、素早く、ズンと踊り出た。
「ちょっとアンタ達!アタシのバイク盗もうなんて、いい度胸してるじゃない。覚悟はできてるんでしょうね?」
 仁王立ちのまま殺意の宿った目で睨みつつ、指をボキボキ鳴らす亜衣は、それはもうものすごい迫力だった。普段がかわいいだけに、怒った時の怖さは半端ではない。全身から立ち込める怒りのオーラはさながら世紀末覇王のそれであり、一直線に逆立ったポニーテールは怒涛に噴き上がるマグマそのものであった。
「ヒ、ヒィィ!!」と恐怖に打ち震えるワルガキ三人衆。ヤバイ物に手を出してしまったと、心の底から後悔する。が、時既に遅し。眼光鋭く睨み倒す亜衣に、ワルガキ共は三人同時にシンナー臭い小便をもらし、やはり三人同時に土下座を敢行すると、アスファルトに頭を叩きつけて許しを乞うた。
 もっとも、亜衣の怒りがそんな程度で治まるはずはないのだが…。

 嗚咽と色んな物をもらす三人衆を乗せたパトカーが、サイレンを鳴らして走り去って行く。
「あーあ、一時はどうなるかと思った」
 事の成り行きを聞かされた麻衣が、随分と呑気なセリフを言いつつ、手を頭の後ろにかまえて伸びをした。
「ホント迂闊だったわ、あたしもまだまだ修行が足らないわね」
 奇跡的にバイクがほぼ無傷で帰って来て、亜衣は反省しつつも安堵に胸を撫で下ろした。と、亜衣は手の中にあるキーの事をふと思いだし、一応このお礼ぐらいは言わなければと、相手を捜すべく周囲を見渡した。
 が、「あ、あれ?」
 いつのまにかジョウの姿は現れたときと同じく、煙の如く消え去っていた。辺りには何事もなかったように、嫌がらせみたいな太陽光線に汗ばんだ首を垂れ下げた人々が行き交い、セミの声が立ち並ぶビル郡を蜃気楼のように歪めていた。
 まるで狐にでもつままれたような顔を晒したまま、亜衣はしばらくその場にキョトンと立ち尽くしてしまう。そんな姉の表情に気づくと、麻衣は意味深な笑いをしてみせた。
「ん、んん?…イッシッシッシッシ」
 十数年間、双子の妹として亜衣に付き添ってきた麻衣だったが、こんな顔の姉は見た事がない。ボンヤリと虚を見つめ、ほっぺたをほんのり赤く染めたこの様はきっと「あれ」に違いない。いや絶対そうだと、麻衣は一人確信した。
「ん?ん?なによアンタ。気持ちわるいわね」
「あれあれ〜、ひょっとしてお姉ちゃん、ふぉ〜りん・らぶ〜?」
 亜衣の顔からボッ!と火が出た。
「!?バ、バババババババカ!!そそそそんなんじゃないわよ!!ちょっと、ちょっと気になっただけだって…」
「キャー!お姉ちゃん耳まで真っ赤になってるー♪かーわいんだー。そうよねえ、彼って結構カッコ良かったし、おまけに無口でニヒルでケンカも強かったしねえ。背はちょい低かったけど。でもまさか、あんなのがお姉ちゃんのタイプだったなんてねー。なんか意外だなぁ……って、むぎゅっ」
 おしゃべりな口を無理やり塞ぐように、亜衣は妹の頭にヘルメットをねじ込んだ。
「ハイハイ、おしゃべりはそのくらいにして、そろそろ行くわよ!」
「もう、怒んなくてもいいじゃん。素直じゃないなー」
「アタシはいつでも素直です!!」
 思いかけず大声で吐き捨てると、亜衣は明らかに浮かんだ動揺の色をフルフェイスメットで隠した。
 愛車に颯爽と跨り、キックペダルを勢いよく踏む。ヴォォン!ドッドッドッドッド…と、軽快なV型2気筒のエンジンサウンドが高らかに鳴り響いた。
「そっかー、お姉ちゃんにもようやく春が来たんだねえ♪ウンウン」
 後部シートに乗りながら、麻衣はひとなつっこい目を三日月型に歪めて何度もうなずく。
「しっつこいわねアンタも。だからそんなんじゃないってばー」
「まあまあいいじゃない、別に悪い事じゃないんだしー。2度と帰って来ない日々を思う存分謳歌するのも、大切な青春の1ページなんだからー。ビバ!ソー・ヤング!!ハラショー……ワワワワ!」
 力ずくで黙らせる気なのか、亜衣は車体を180度ターンしながら急発進させる。
「ホラホラ。あんまり無駄口叩いてると、着く頃には舌が無くなってるよ」
「お姉ちゃん、危ないってばー!!」
 振り落とされそうになり、麻衣はあわてて姉の背中にしがみついた。

 一点パースの彼方に消えて行く景色の中、亜衣はまるで心に芽生えかけた種火を吹き消すように、スロットルを強く回した。
 結局、彼が何者でどこからやってきたのか全く分からないままだったが、なぜかあの目、少し目尻の下がった力強くもどこか寂しげな目が、残像のように心から消えない。
 きっと彼の使っていた不思議な技がそう思わせるんだと、亜衣は自分に言い聞かせた。そうでなければ、この胸の高鳴りが説明できない。背中にしがみついている妹にも聞えてしまいそうな程、心臓が激しく波打つ。でもまさか、ひょっとしてアタシ―――…、と考えている途中、亜衣は赤信号に気づいてあわててブレーキを踏んだ。ギュギュギュギュギュッとタイヤを著しく削り、バイクは一度バウンドしてから粗っぽく止まった。
「ちょ、ちょっとお姉ちゃん、運転してる時はちゃんと集中してよー」
「ア、アハハハハ。ゴメンゴメン」
 照れ笑いしてごまかす亜衣。もうなるべく彼の事は考えまい。信号が変わると同時にゆっくり車体を滑らせながら、亜衣はそう思う事にした。
 当然、亜衣とジョウは後に運命的な再開を果たす事になる。むろん、それがこれから起こる事件に大きく関わってくる事は言うまでもないが、そんな事は知る由もない二人は、一路下宿先の大鳥屋敷を目指して走り続けた。


―――時間を前後した大鳥学院内弓道場の右手非常口。ちょうど昼過ぎ頃から日陰に入るここは、練習を早めに切り上げた真緒と寿々音にとって恰好の涼み場であった。
 グラウンドの方では、他の運動部が掛け声を出し合い、汗を流している。校舎の屋上あたりからは、学院祭で披露される予定の「ミス・ア・シンク」を練習する、ブラスバンド部のはずれた旋律が鳴り響いていた。
「でもでも、最近の真緒センパイってなんかすごいです」
 突然、妙に真剣な顔で頓興な事を言い出す寿々音に、真緒もまた「へ?」と素っ頓狂な声を返してしまった。
「なんていうか、弓の腕もグングン上がってるし、前よりもっと『お姉さん』って感じになったって、寿々音おもうんです!」
 後輩の妙な迫力に圧倒されながら、真緒は「そ、そうかな〜」と笑って謙遜してみせる。
 確かに、平均よりも幾分か身長の低く童顔の真緒でさえ、さらに小さく幼い容姿の寿々音と並ぶと「お姉さん」に見えなくもない。
 しかし実際、寿々音の言葉は真緒自身大いに実感のある事だった。あの事件より前と比べて、集中力も精神力も格段に向上している。なにより、一皮向けた自信のような感覚を、真緒はその小さな身体に漲らせていた。
「でも、そうさせてくれたのは寿々音、あなた達なんだよ」
 ペットボトルの水をクピクピと飲む寿々音の横顔をいとおしむように見つめながら、真緒は心の奥で秘め事のようにひとりごつ。
 絶対に無理と分かっていても、この感謝の気持ちをどうにかして伝えたい。真緒の胸中は、その気持ちで溢れていた。
「ん?どうしたんですか、真緒センパイ」
「……あ、あー、暑いねー今日は。アハ、アハハハハハハ」
 視線に気づき、少し「?」という顔を向ける寿々音に、真緒はまた笑ってごまかした。


――――そんな二人を見つめる、怪しい影があった。 
 金網2枚をはさんだ弓道場のすぐ近くに設けられた駐車場に、そのベンツは留まっていた。マフィアのボスでも乗っていそうな、でかく、ごつく、厳つい風貌とは裏腹に、後部座席から顔を覗かせたのは、一人の美しい女性だった。
 20代よりは上であろうが、若いだけの女にはない熟れた女の色香を漂わせている。座っていてもかなりの長身と分かるその肢体は、胸はたわわで腰は細く、股下1mはあろうかいう両足はスラリとしなやか、つまりは非常にグラマラスであった。
 派手なゼブラ柄のスーツや超高級バッグ、トータルで家一軒買えそうな貴金属の類も、その魅力を引き立てる脇役でしかない。そう思えるのは、単に彼女が類稀なる美貌の持ち主ゆえであろう。
「…結城。あそこにいるの、大鳥香の妹さんじゃなかったかしら?」
 後輩と談笑している真緒の姿を、女性は微笑を浮べたまま、サングラス越しに眺めていた。運転席の黒いスーツ姿の男が、同じ方向へと視線を滑られる。
「は、風見様。大鳥真緒、姉の香亡き後、実質上大鳥家当主となっていますが、現在のところ我が校の運営等には一切関わっていないようです……」
 風見と呼ばれた女性の運転手兼秘書・結城は、その外見と同じく実直そうな口調で応える。ノンフレームのメガネにそう書いてあるんじゃないかと思われるほど、淡々と語られる真緒のパーソナルデータを、風見はほくそ笑むような表情で聞き流す。そしてその目は、なおも胴衣姿の真緒を見つめ続けていた。
「ふ〜ん。お猿さんみたいで結構かわいいじゃない♪」
 あ、もういいわよ。と結城の朗読をにべもなく止めると、風見は真っ赤な長い髪をさっとかきあげ、白魚のような指で軽く解かした。上質のワインというより、むしろ血のような、どこか禍禍しい赤色の髪であった。そして。
「ちょっと、挨拶しとかなきゃね♪結城」
 ひとりごつように続けると、風見はよく言えば欧米的な、悪く言えばバタ臭い、しかし絶世の美しさである事には変わらないその顔で、思い出したようにクスクスと笑った。
「は、はぁ。しかし…」
 なにかを言い返そうとして結城は言葉を詰まらせたが、余裕の笑みでタバコに火をつける風見をルームミラー越しに確認すると「…かしこまりました」と小さく呟き、ノンフレームのメガネを指先で押し上げた。
 黒い上等のビジネススーツの内ポケットから、結城は一万円札大の大きさの紙を一枚取り出す。そして呪文のような言葉を呟きながら、それに左手の小指でなにかを書くようになぞると、その部分が梵字となって浮かびあがり、瞬く間にパッと消えた。
 結城の視線は、真緒と寿々音のいる方へと向けられていた。

「あ、あの人…」
 先に気づいたのは寿々音だった。
「ん?どうしたの、寿々音」
 視線を合わせた真緒の表情が、一瞬にして曇った。そこには、黒いベンツから降り立つ一人の女性と、その秘書と思われる黒いスーツの男の姿があった。寿々音が少し怯えたような声で続ける。
「新しい…学院長さん、ですよね…」
 問いは帰ってこなかった。ただ、大きな胸を抱えるようにして腕を組み、グラウンドを微笑したまま見渡す新しい学院長を、真緒はまるで仇敵でもあるような目で見据えていた。そんな先輩の小さく形のよい顎を、寿々音は不安そうに見上げるしかなかった。
 ―――風見紫樹華(しずか)。前任の亀山火巫女が退任(表向きは)した後、あの女は突如なんの前触れもなくこの学院に現れ、いつのまにか学院長の椅子に座っていた。
 本来、人見知りなどはしない性質の真緒であったが、どこから来て、今まで何をやっていた何者なのか分からないあの女だけは、どうしても好きになれないでいた。自分の腹の内を全く隠している部分も不気味だったが、常に微笑を湛えているあの美しい顔から発する、独特の威圧感と妖艶な雰囲気も、真緒をより不快で嫌悪的な気分にさせた。
 男好きしそうな女が持つ、いわゆる安直なセックスの匂いがそう思わせるのか。それとも、サングラスの奥で冷たく光る、黒豹のような黄玉色の瞳が、なんとなく火巫女を彷彿とさせるからなのか。あるいはそのどちらでもあったかもしれない。
 しかし実際、真緒は火巫女の事はそれほど嫌いではなかったし、あんな事件の後でさえ、完全に憎み切る事はできていなかった。それよりも、あの女にはもっと違うなにかを感じる。もっとドス黒く、凍てつく鋭利な刃物のような何かを…。
「…行きましょう、寿々音」
 真緒はその場を離れようと、寿々音の腕を引っ張りつつ、逃げるように歩き出した。寿々音もまた、とまどいに似た表情でうなづきつつ、無言で後についた。
「………、…え?」
 見られている。ふいに真緒はそう感じた。それもまるで、標的を捉える暗殺者の照準レーザーポインターのような、殺気と狂気に満ちた視線。思いかけず立ち止まり、気配のするほうへ顔を向ける。そこにあったのは、いつのまにかこちらを眺めつつ柘榴色の唇でニコッと笑う風見の姿であった。
 と、一瞬サングラス越しに目と目が合ったような気がして、真緒はより不快な気持ちになった。そんな真緒の心中に気づいたのか、風見はおもむろにかけていたサングラスを指で下げると、そのトパーズ色の怪しい輝きを宿した瞳を見せつけるように、はたまた色男でも誘い落とすように、後輩と共に佇む真緒に向けてウインクを送ってみせた。
 自分の胸の内を読み取った上で、それをからかわれているような気がして、真緒は猛烈な胸くそ悪さを覚えた。一秒とここに居たくない。泥の泉のように沸きあがる黒い感情は、立ち去る真緒の踏み足をより強いものにした。
 このとき、寿々音の胴衣の足元に不自然に張りつく紙札に気づく余裕は、真緒にはなかった。

「待ってくださいよ真緒センパイ!センパイってば!」
 腕を引きずられながら、寿々音は蒸し暑い廊下を足早に突き進む真緒を呼びとめようと、懸命に声を出す。しかし、苛立ちの虜となった真緒にその声が届く事はなく、憤った足取りは向かうあてもないまま、強く踏みしめられていた。
 …あの女の笑顔はまるで蜘蛛の糸だ。糸は手足に枷のように絡まり、相手の動きを止めてしまう。その隙に、蜘蛛はゆっくりとにじり寄り、獲物を散々弄んでジワジワと弱らせてから食らう。ひたすら歩きながら、真緒はそう思った。
 全ては勝手な妄想にすぎない。しかし、それを完全に否定しきれない何かがあの女にはある。思い込みや邪推ではなく、確信に近いプレッシャーのような何かが…。
「痛い!痛いですよ真緒センパイ!!」
 寿々音の声が叫びに変わり、真緒はようやく正気に戻った。しかし、いつのまにか強く握り締めていた寿々音の腕は、自分から離すより先に振り解かれていた。
「あ……、ごめん寿々音…」
 手首の押さえつつ、潤んだ瞳を向ける寿々音に、真緒はただうなだれるしかなかった。
「ごめん…、ホントにごめん」
「センパイ…」
 真緒は、気づかない間に寿々音の存在をないがしろにしてしまっていた事を心底恥じた。風見の事に気を囚われ過ぎて、一番大事にしなければならない者を忘れていた事が、たまらなく悔しく、情けなかった。
 と、ふいに寿々音は、今にも泣き出しそうな真緒の前髪を指でそっとかきあげると、子供の微熱を計る母親のように、自分の額を真緒の額に合わせた。
「寿々音…?」
 急な出来事にとまどう真緒に、寿々音はエヘヘヘと照れ笑いをする。
「そんなに凹まないでくださいよ、真緒センパイ。あたし、ぜ〜んぜん怒ってませんから」
 それは昔、姉がよくやってくれたおまじないであった。真緒がまだ今の寿々音よりもうんと小さい頃、泣きそうになる自分をよくこうやって慰めてくれた。それが知らないうちに、自分が寿々音を慰める際の癖になっている事に、真緒はこの時はじめて気づかされた。
 精一杯背伸びをしつつ、不安定な姿勢でまじないをする寿々音の優しさに、真緒は救われた気がした。
 お互いの額が離され、二人同時に微笑み合う。そして、感謝の気持ちをこめて、真緒は寿々音の手を、今度はできるだけ優しく握ろうと手を差し伸べ、寿々音もまた、それを受け入れようとした。
 その時。
「え、えぇっ?!」
「な、なに!?」
 突如、おびただしい花びらの群れがボワッと舞い上がり、かと思う間に寿々音を取り囲む花吹雪となった。いや、これは花びらではない。紙、それも細かく千切れた全ての紙に真言を意する梵字がびっしりと書かれた、さながら護符の紙吹雪であった。
「やだ、ちょ…なにこれ!!」
 舞い踊る無数の紙吹雪は次々と寿々音に張りつき、抗う術を持たないその幼い身体をまるごと包装するかのように、全身へと纏わりつく。遮ろうとする真緒の指先をサラリとすり抜け、一直線に寿々音へと吸い寄せられていくその様は、まるで紙切れひとつひとつに意思のあるような、あるいはなんらかの力によって操られているような、作為的な行動に思えた。
「なに…なにがどうなってるの!?寿々音!」
 二人には驚いているヒマも余裕もなかった。とにかく、このままでは間違いなく不吉な事態が起こると直感した真緒は、張りつく紙を引き剥がそうと、渦巻く吹雪の中果敢に挑む。しかし紙吹雪の接地面は縫い付けたように固く、そして紙自体も鉄板のように強固であり、ただの一片とて取り除く事はできない。
 そうしている間に、紙吹雪は寿々音の身体の自由を奪い続け、次第にその姿は生きたミイラの様相を呈してきた。
「がんばって寿々音!必ず助けるから!」
「………、………」
 真緒の呼びかけに応えようとするも、既に寿々音の口は、声を発せられる状態ではなかった。それでも懸命に救出を試みようと手を尽くす真緒の脳裏に、あの事件の記憶が蘇ってくる。二度と起こってはならない悲劇。繰り返す事の許されない悪夢。打ち消そうとすればするほど、映像はより鮮明に映し出された。
「寿々音!!しかっりしてよ寿々音ぇ!!」
 そんな忌まわしい記憶を平手打ちで強引に断ち切り、真緒はもはや完全にその身を紙切れに覆われた寿々音を励ますべく、両肩を抱き寄せそうとした。
 ところが。「うわ、あああああ!?」
 両手が触れた瞬間、寿々音の小さな肩がパサッと崩れた。驚きに真緒が身をたじろがせると、紙切れはまるで見計らったように、音もなく一枚一枚徐々に剥がされ、吹雪の一部へと戻って行った。
 そこに、寿々音の姿はどこにもなかった。
 まさに青天の霹靂にして一瞬の出来事だった。ふいにどこからか強い風が入り込み、紙吹雪をさらっていった。後には破片の一つさえ残さず、護符の紙吹雪と寿々音は跡形もなく消え去ってしまった。ただ、ペタンと座り込んで呆然とする真緒だけが、迎える者をなくした待ち人のように取り残されていた。
「なんなの…なんなのこれ……。寿々音は…寿々音はどうなっちゃったのよー!」
 やり場のない想いが絶叫となって、人気のない廊下に空しく響いた。


「ウフフフフフフ♪やっぱりうぶでカワイイわ、あの子」
 グラウンド横の舗道をしゃなりしゃなりと歩きつつ、風見はさっきの真緒の顔を思い出しながらクスクスと笑う。ブンブンと楽しそうに振り回す高級バックは、プレミア価格100万はくだらない代物である。マニアが見たら卒倒するか失神するか、そのどちらかに違いない。
「はぁ…。しかし、本当によろしかったのですか?あの娘…大鳥真緒に計画を知られるのは、遂行の障害となりうる恐れが…」
 差し出されたタバコに火を付けつつ、結城は畏まりながら尋ねる。 
 たわわな胸の隅々まで煙を充満させてから、それをうまそうに吐き出すと、風見は傾きかけた太陽を手庇に眺めた。降り注ぐオレンジ色の陽射しが、細めたトパーズの瞳の中で乱反射している。
「いいのよ〜。どうせ今更、あの子がなにやっても手遅れなんだし♪そ・れ・に…」
 と、どこからかサッカーボールが飛んできて、結城の前に止まった。遠くで「すみませーん」と頭を下げるサッカー部員に、結城が投げ返してやろうとするのを、風見が手で制した。
 一礼して下がる結城を確認すると、風見は大きく振りかぶってボールを蹴り上げる。
「そ〜れ♪ペナルティ・エリアの外からのシュートォ!」
 ギュルルルルルッ!!と怒涛のうねりを宿したボールは、そのまま棒立ちの部員を跳ね飛ばし、砂塵を巻き上げてグラウンドを音速で横切ると、数100m先のコンクリート塀へ一直線に突き刺さった。
 グラウンドにいた全員が唖然と硬直する、その青ざめた視線の先で、風見は余裕の笑みを浮べたまま、タバコの火を指でもみ消しつつ言葉を続ける。塀を穿つサッカーボールは、自身の回転力に耐えきれなくなると、細切れとなって四方に飛び散っていった。
「それに、ケンカは買うより売る方が楽しいのよ。ウフフフフフ♪」


 はい、皆様いかがでしたか?手強そうな敵との遭遇、そして意外な人物の登場でしたわね…クスクス。
 それにしましても、高須さんは大丈夫なんでしょうか。それから結城さんのおっしゃっていた「計画」とは、いったいなんなのでしょうねぇ。気になりますわぁ。ま、多分またエッチな事なんでしょうけど…クスクス。
 さて次回は、真緒がいきなり絶体絶命の大ピンチに立たされるみたいですの。それから、お待ちかねのお話もありそうですわ。まあ、どなたがお当番に…じゃなかった犠牲になるんでしょうね…クスクス。
 あとは、作者さんの遅筆っぷりが改善してくださればいいんですけど。なにしろ、今回の書き直しだけで半年近くかかっちゃうオチャメさんですからねぇ…クスクス。ほんと、スロットで3万円スってるヒマあったらとっとと書いてくださいましね…クスクス。
 ではでは、またの御機会に。大鳥香でした…クスクス。


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